昨年の12月5日ぶり以来のクリスマス豆知識の続きです(笑)すっかり忘れていました。
一年越しですが、クリスマスツリーについての豆知識をご紹介したいと思います。 “クリスマス豆知識5”続きを読む
昨年の12月5日ぶり以来のクリスマス豆知識の続きです(笑)すっかり忘れていました。
一年越しですが、クリスマスツリーについての豆知識をご紹介したいと思います。 “クリスマス豆知識5”続きを読む
忘我状態を一定時間継続できるようになると、しだいに意識の深みに踏み込んでいく。ここから次のステップに入る。ここからが本格的な瞑想である。忘我状態は意識と無意識の狭間であるが、無意識の領域に入り込むと感情の渦の段階に移る。この領域に入ると、忘我状態の無心で落ち着いた状態から一変して、激しい感情の波に襲われる。自分の心に中に閉じ込めていたあらゆるストレス、不安、怒り、憎しみ、苦悩、苦痛、恐怖、辛い過去、それ以外にも様々な考えや感情などが無秩序且つ爆発的に次々に現れては消える。制御不能の感情の波が止めどなく襲ってくる。自分の心の中に秘められている混沌(カオス)に直面しているが故の状態である。自分の心のうごめきの生々しさに衝撃を受けるだろう。しかし同時に自分の中に本来ある凄まじいエネルギーがこれ程あるのかとも驚かされる。自分という存在を自分自身が制御できる意識からのみ見ただけでは知ることは出来ない、自分の中には制御不能な領域・混沌のエネルギーが渦巻いていることに気が付く。 “瞑想の心得3”続きを読む
瞑想の経験のない人が瞑想を行おうとする時のよくある間違いは、いきなり自分の心に入り込もうとすることである。どんなに瞑想に熟達した人でもいきなり自分の心に没入することはできない。瞑想状態に至るにはいくつかのスイッチを押す必要がある。それを無視して瞑想状態に入り込むことはできない。
瞑想には6つの段階がある。それぞれが次の段階のスイッチとなっており、段階を飛び越えて次に進むことは出来ない。 “瞑想の心得2”続きを読む
瞑想と聞くと、小難しくて、宗教っぽくて、特殊な人にしかできない行為だと思いがちである。確かに、瞑想を習得するには訓練が必要である。一朝一夕には習得できるものではない。しかし、瞑想自体は訓練さえ続ければ誰にでも出来る行為である。また、必ずしも宗教的なものとは限らない。また、意外に知られていないが、瞑想は優れたストレス解消法であり、精神的安定をもたらす技術でもある。瞑想とは、何か難しい真理を精神世界に行って探るだけの行為ではない。
ここで紹介する瞑想とは宗教的な内容ではなく、誰しもができる自分自身の心との向き合い方・技術、メンタルテクニックと理解してほしい。 “瞑想の心得1”続きを読む
私が教会に仕えていたころ、イエス・キリストは神だと教えられていた。そもそもキリストとは救い主という意味である。イエスは救い主であると宣言することが、イエス・キリストである。
これはキリスト教の根幹をなす教えである。人間であるはずのイエスという男が神であると主張するところにキリスト教の特色がある。その主張抜きにはキリスト教の教えは全てが崩壊する。あの十字架上で死んだ男が実は神であった。神が私たちの救いのために死んだのだ。ここにキリスト教の核心がある。しかし、人間が神であるということは初めから無理のある論理である。キリスト教は、イエスは神であり同時に人間であると主張している。半人半神であるということでもない。100%神であり、100%人間であると主張している。異なる属性が同時に両立することありえない。論理的に破綻している。キリスト教の教義は決定的な矛盾を抱えていると言わざるを得ない。
しかし、キリスト教はそのことを認めるわけにはいかない。イエスが神でなかったら、十字架上で死んだのは一人の逆説的反抗者の死でしかなくなってしまう。そうなるとイエスの死は人類の救いでもなんでもなくなってしまう。神が人類の罪の為に死んだという論理の中でこそキリスト教の救いは成立するのであり、それがただの一人の男の死でしかなかったならば、無意味であり、何の意味もなさなくなってしまう。キリスト教の教え全体が根底から覆されてしまうからである。だからこそ、キリスト教はイエスの人性・神性の論理的な破綻・矛盾を認めることは絶対ない。
“イエスという男”続きを読む
① キリスト教側からすれば、社会福祉事業のおかげで、教会のイメージが変わった。
② 政府は、キリスト教の社会福祉事業の実績の着目し、社会道徳を整えるのに、キリスト教の徳育の有効性を利用しようとした。
③ ここに教会と政府の利害関係が一致する。
④ そして政府がキリスト教を事実上公認する出来事が起こる。それが三教合同である。
⑤ 三教会同は床次竹次郎内務次官の呼び掛けによる、社会風紀改善の為の取り組みについて話し合う、神道・仏教・キリスト教の三宗教合同による会議である。これは当時、多くの誤解を招いた。神道・仏教・キリスト教を混同させる政策であると言われたり、宗教を党略のために利用するのだろうという疑いが持たれた。
以下は、松木武彦『全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記』のP, 19-30の要約です。
人類の進化を遡ると、今から700万年ほど前までは、ヒトの祖先とチンパンジーやゴリラといった霊長類の祖先は同じ動物でした。ヒトはそこから分岐して進化し、現在の様な知能や姿を獲得していきました。チンパンジーやゴリラも独自の進化を遂げ、今の様な知能や姿を持つに至りました。彼ら霊長類の知能は他の動物と比べると遥かに上回っています。しかし、その彼らも知性においてはヒトには遠く及びません。
私たちホモ・サピエンスが進化の過程で獲得していったのは身体的特徴のみならず、脳の働き方の特徴、即ち心の在り方も独自のものを獲得していきました。脳の働き方=心の特徴もまた、生存の為に有利なものが生き残っていくと考えるのが最近の進化論で唱えられています。つまり、身体の特徴だけでなく、心の特徴もまた進化の産物というわけです。私たちの心は、架空の存在、美の感覚、象徴化を生み出す傾向を持っています。 “ヒトの心の在り方”続きを読む
① 特に日曜学校に注目して見ていきたい。
② 日曜学校は1780年に、イギリスのロバート・レイクス(1735-1811)がイギリスのグロスター市で貧しく悲惨な生活を送っていた子供たちに、読み書きやカテキズムを教えたのが始まりであった。レイクスは自ら発行する新聞「グロスター・ジャーナル」に日曜学校の記事を載せたので、広く世間に知られるようになった。 当時の日曜学校は慈善学校と同義であり、日曜日に6時間以上も開かれ、宗教教育はもちろん、一般初等教育が行なわれていた。
③ 日本において日曜学校がもたらしたものは、教育を受ける機会を与えられていなかった子供たちに教育を与えたことである。また、日曜学校は子どもへの教育だけではなく、地域社会にも介入していき、社会構造の中で抑圧されていた人々や、女性、老人、孤児などにも支援し、希望を与えた。
以下はサイモン・シン『フェルマーの最終定理』P, 56-P, 64の要約です。
数学の証明は、私たちが口にするいわゆる「証明」や物理学者や化学者の考える証明よりもはるかに強力かつ厳密である。科学的証明とは数学的証明とは、微妙であるが重大な点で異なっている。
数学の定理は論理的なプロセスの上に成り立っており、一度証明された定理は永遠に真である。数学における証明は絶対である。
科学は、ある自然現象を説明するために仮説が立てられ、その現象を観察した結果が過程と合っていれば、その仮説にとってプラスの証拠になる。 “科学の証明と数学の証明”続きを読む