生活していると、自分の周りのことだけが全ての様に感じてしまう。
周りの細々としたことに気を囚われてしまう。
しかし、それが全てではない。
人間は微視的だからそう感じてしまうが、世界は途方もなく広い。
無限のレベルで考えれば、人間など大きいも小さいもない。
巨視的に見れば全ては同じになる。
あれが良いとか、あれは良くないなどは人間が勝手に決めた相対的な判断に過ぎない。
生活していると、自分の周りのことだけが全ての様に感じてしまう。
周りの細々としたことに気を囚われてしまう。
しかし、それが全てではない。
人間は微視的だからそう感じてしまうが、世界は途方もなく広い。
無限のレベルで考えれば、人間など大きいも小さいもない。
巨視的に見れば全ては同じになる。
あれが良いとか、あれは良くないなどは人間が勝手に決めた相対的な判断に過ぎない。
自惚れてはならない。
自分が色々と知っていると自惚れるな。
自分が知っていることなど、しょせん一個人の器に留まる程度に過ぎない。
たかが知れている。
愚かになれ。本当の智を得たければ愚者になれ。
人生は苦しみに満ちている。
全てのものは流れて変化していく。
人間は、一つのものに固執しようとする。
一切が流転する理に逆らおうとするからこそ苦痛が生まれる。
自分そのものも常に変化していく。「自分」というものに固執しようとすればするほど苦しみが増す。
その意味で、自我と呼ぶような固定されたものは本当は存在しないのかもしれない。概念として人間が作り出したものに過ぎないのかもしれない。
変化しない自我など存在しない。自分という実態は不変の「自我」ではなく、変化し、連続した自分の寄せ集めに過ぎないのかもしれない。
人間には本能があり、本能が欲望を生み出す。仏教では煩悩という。欲望は決して満ちることはない。決して満たされない欲望を満たそうとすることそのものが苦痛である。
究極的には我を消せば欲が消え、苦痛から解放される。
しかし、悟りに達することは出来ない。
この世の全ては変化し、相互に影響を及ぼし合っている。
ならばせめて自分のものは一時的なもので自分の所有ではなく、自分ですら一時的なものに過ぎないことを知ろう。
世界はこうである、という理解は決して共有化されない。
自分の世界は自分だけのものである。
なぜなら、この世界を認識しているのは自分だけであるからである。
人は、他人の認識している世界を決して自分のものとして認識できない。
世界は一人ひとり違う。
あなたの見えているものと、私の見えているものは違う。
あなたの認識している世界と、私の認識している世界は違う。
あなたの生きている世界と、私の生きている世界は違う。
しかし、私たちは違う世界に生きながら、共に生活している。
異なる世界にいるが、すれ違ってはいる。それが社会である。
社会は異なる世界に住む者が、すれ違いながら生きている場である。
社会で生きるということは綱渡りをすることである。
社会は邪悪という名の強風で吹き荒れている。
純粋さは尊いが、純粋な心ではすぐさま食い殺される。
賢くあれ。警戒を怠るな。知恵が大切だ。
愚か者は自分の目に見えた者だけを信じる。それを疑おうともしない。
目に見えているものが真実だとは限らない。
聞こえているものが正しいとは限らない。
何故、自分の認識が間違っているかもしれないと疑わないのか。
自分が見ている者と他人が見ている者は同じではない。
理解が共通している訳ではない。
自分の認識は自分だけのものに過ぎない。
疑え。自分の前提を疑え。自分の認識を疑え。
生活が豊かな時は窮乏を忘れてはならない。
今の生活が無限に続くわけではない。今立っている土台がいつまでもあるわけではない。
豊かな時こそ、貧しさを心に留めよ。
しかし、貧しさに囚われてはならない。
貧しさに魂を食い尽くされるな。
人間性と尊厳を貧しさに蝕まれる。
さもないと現在を失い、死ぬまで「窮乏」という牢獄に囚われたままになる。
豊かさと貧しさを正しく自分の管理下に置かなければならない。
豊かな時こそ自惚れず貧しさを忘れるな。
貧しい時こそ心を豊かにせよ。
本能というのはとても大切である。
我々は本能から決して離れることは出来ない。
しかし、本能に人生を乗っ取られてはならない。
我々は人間である。本能が人生の主体者ではない。
理性が与えられていることを忘れるな。理性を携えた「自分」が人生の主体者なのである。
快楽が人生の中心なのではない。
自分の魂を「欲望」という化け物の餌にしてはならない。
最も汚れたものは人間の心である。
色々な思想やルールが人間にレッテルを張り、その人を忌み嫌う。
レッテルを張られた人は社会的、心理的に疎まれる。
まるでその人自身が汚れているかのように扱われる。
しかし、本当にそうなのだろうか。
その汚れは本当に彼からきているものなのだろうか。
その汚れは作り出されてはいないか。
レッテルを張り、汚れを作り出してるのは人間の心そのものである。
清めの儀式を行ったり、清浄化するような儀式を行ったとしても人間の心は清められない。
表面だけを清めても、心までは清められない。