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たまにの暮らし‐tamany‐

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超越論的キリスト教論

愛を教える宗教

愛を良いものと教える宗教がある。

神の愛を至上の救いとする宗教がある。

しかし、ほんとうにそうだろうか。

たしかに、愛は人やものを大切にする。

しかし、愛の性質とは本質的に独占欲と執着心からできている。

どちからというとネガティブな側面から来る感情である。

自分のものである、自分にとって大切だから愛があるのであって、関係性が無ければ愛など生まれない。

独占欲と執着心からくる庇護であって、裏切られれば恨みや怒りに変わらないだろうか。

これはユダヤ教の神、キリスト教の神の姿そのものだろう。

それらの宗教の神は人間の完全な自由と自律を望んでなどいない。あくまで自分のものであり、自分のもとから離れず、裏切らない人間だけに与えられる愛と庇護である。裏切者には神の怒りと地獄が待っているのである。

信じている人だけが救われて、信じていない人間は救われないという構図そのものが、正にこれらの神の愛の性質を表しているだろう。

自分のものである人間だけは救うが、そうでない人間などどうでもよいのである。

なんて狭い心、恐ろしいまでの独占欲と執着心なのだろうか。

人間の自由、人間の自立を完全に否定し、自分の作った檻の中に閉じ込めて可愛がろうとすることが、それらの宗教が説いている愛なのである。

「救い」とは何なのか?3

「救い」とは主観的な物語

「救い」の感覚とは一体どのようなものなのだろうか?端的に言って「救い」とは信仰者による主観的感覚である。客観的に何かが変わる訳ではないし、人生におけるネガティブな状況が解決されるわけではない。 “「救い」とは何なのか?3”続きを読む

「救い」とは何なのか?2

「救い」の要素 不完全な人間

「救い」を成立させるには2つの要素が必要である。1つは「救い」を必要とする人間という存在は何かしら欠けていて、劣っていて、完全から遠い存在であるということを前提とするということである。

“「救い」とは何なのか?2”続きを読む

「救い」とは何なのか?1

「救い」は宗教の使命

宗教の最大にして根源的な目的は信仰者に「救い」をもたらすことだ。

「救い」を与えることが宗教の使命といってもよいだろう。そして宗教は「救い」を売りにしているといってもいいだろう。 “「救い」とは何なのか?1”続きを読む

あるクリスチャン

今の私にとってみれば、ほとんどのクリスチャンは理性的な思考の足らない人か、偏った思想の持主にしか見えない。特に、聖職者と呼ばれる人々などは偽善者だらけだと感じてしまう。

しかし、最近、あるクリスチャンを思い出す。

その人は、クリスチャンではあったが、真に愛の行動に情熱を燃やしていた人であった。しかも、ずっとである。短い炎で燃え尽きるのではなく、愛に生きるのがこの人の人生なんだなと感じる。多くの牧師たちは口だけである。有り難い言葉を奨めておきながら、自分は愛を実践しない。偽善者である。しかし、その人は違った。口に出すよりも、愛を実践することの方が先だった。その人を見て、私は「この人の真似は出来ないな」と感じた。自分には真似できない生き方を素で実践している人に驚いた。私が出会った多くのクリスチャンの中で、もっとも聖人に近い人であろう。 “あるクリスチャン”続きを読む

イエスという男

私が教会に仕えていたころ、イエス・キリストは神だと教えられていた。そもそもキリストとは救い主という意味である。イエスは救い主であると宣言することが、イエス・キリストである。

これはキリスト教の根幹をなす教えである。人間であるはずのイエスという男が神であると主張するところにキリスト教の特色がある。その主張抜きにはキリスト教の教えは全てが崩壊する。あの十字架上で死んだ男が実は神であった。神が私たちの救いのために死んだのだ。ここにキリスト教の核心がある。しかし、人間が神であるということは初めから無理のある論理である。キリスト教は、イエスは神であり同時に人間であると主張している。半人半神であるということでもない。100%神であり、100%人間であると主張している。異なる属性が同時に両立することありえない。論理的に破綻している。キリスト教の教義は決定的な矛盾を抱えていると言わざるを得ない。

しかし、キリスト教はそのことを認めるわけにはいかない。イエスが神でなかったら、十字架上で死んだのは一人の逆説的反抗者の死でしかなくなってしまう。そうなるとイエスの死は人類の救いでもなんでもなくなってしまう。神が人類の罪の為に死んだという論理の中でこそキリスト教の救いは成立するのであり、それがただの一人の男の死でしかなかったならば、無意味であり、何の意味もなさなくなってしまう。キリスト教の教え全体が根底から覆されてしまうからである。だからこそ、キリスト教はイエスの人性・神性の論理的な破綻・矛盾を認めることは絶対ない。
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服従の構造

キリスト教が世界各国の植民地支配の前段階で宣教されていったのには理由がある。それはキリスト教会の教えが服従の構造を生み出してくれるからである。

キリスト教は神、キリストへの服従、愛、受容(または寛容)、忍耐を教える。これら一つ一つは素晴らしい道徳であり、これらを守り生活すればより豊かな人生を歩めるだろう。しかし、これは個人レベルの話しである。

民族とか国家という大きな枠組みでキリスト教の教えを受け入れてしまったならば、それは悲劇をもたらすことになる。

支配者にとって被支配者はなるべく自分たちに従順であることが望ましい。その次に望ましいのは不満を持ちながらもそれを爆発させずに反抗しない被支配者である。 “服従の構造”続きを読む

キリスト教の発展と社会事業の関係5

5.教会と政府の蜜月

①    その証拠が。1920年にアジア初の開催となった第8回世界日曜学校大会が東京で開かれたことである。

②    この大会に外国人代議員1212名、日本人代議員786名、準代議員592名の合計2590名が集まった。「この大会は外国から多くの参加者を迎えた国際会議であり、当時の政府、財界の積極的な援助を受けた。また、宮内省からも大会のための準備事業補助を受けている」(1) 。関係者の大部分は、キリスト教が政府に認められたと喜んでいた。しかし、この大会は純粋な日曜学校大会ではなかった。実は、日本日曜学校協会は、この大会を利用して財界や宮内省と関係を密にし、経済的な恩恵を受けようとした。

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教会と日本人

日本のクリスチャンとは何故ここまで日本が嫌いなのだろうか。

私は長年キリスト教会の世界で生きていたので身に染みるほど感じたが、日本の教会とクリスチャンは徹底的に日本が嫌いなようである。ほとんど画一化された傾向である。クリスチャンである限り、日本を嫌いにならなければならないというのか。徹底的に日本を非難し、貶める。よくもまあここまでやるなと思うぐらいである。

私はその様な風潮に飽き飽きしている。クリスチャンであっても何故、日本を好きであると言ってはならないのか?日本人なのだから、日本が好きであっても良いではないか。

しかも、彼らが日本のことが嫌いなのは、事実誤認、改竄された歴史が理由になっている。真実や事実に基づいた上での「好き・嫌い」なら分かるが、そうでないものに基づいて断罪されるのはたまらない。彼らにとっては、クリスチャンになるということは、日本人を辞めるということなのだろう。

教会は多様な考えを受け入れない。特定の思想に支配されている。その思想に従わない限り、教会に属し、クリスチャンとして生活は出来ない。恐ろしい場所である。言論統制が敷かれている社会である。まるで、あの社会に生きているようである。

以前の投稿でも書いたが、教会は極左的思想を持った団体であり、反社会勢力である。

日本人であることと、クリスチャンであるということは両立できないのか。

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