まーやーさんから頂いた聖餐の質問の続きと結論です。
Tama:もう一つ。これは面白いものがあります。これは聖餐式のみならず聖礼典全体に関わることです。聖礼典の効力というものは、それを執り行う者に左右されないという理屈があります。つまり、聖礼典を執行する者の性質を問わないということです。
例えば、執行者が不信仰であろうと、なかろうと、聖礼典は有効であると理解されています。何故なら、聖礼典の根拠は御言葉だからです。聖礼典の真の執行者は主であって、礼拝で執行する人間というのは単なる道具、神と聖礼典をつなぐ管であるという考えです。
これは、キリスト教の迫害の歴史の中でどうしても解決しないといけない問題から生まれた考えです。ローマ時代の迫害の時に聖職者を含めた多くのクリスチャンが躓きました。その時に問題になったのは、迫害によって躓いた、棄教した聖職者から洗礼とか聖餐という聖礼典を受けた信徒たちが「あの時、自分たちは洗礼を受けたけれども、あの躓いた聖職者から受けた聖礼典は有効だったのか。もう一回洗礼を受け直さないといけないんですか」という議論が起きました。
この混乱はかなり大きなものであったので、収拾を着けるために、「聖礼典は御言葉に根拠のある儀式だから執行する人間の属性に左右されることはない」と説明することで、なんとか事を収めたという経緯がありました。神学論争でいうところの人効説か事効説かということですね。アウグスティヌスの時代の大論争でした。
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