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たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

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人生

自惚れるな

自惚れてはならない。

自分が色々と知っていると自惚れるな。

自分が知っていることなど、しょせん一個人の器に留まる程度に過ぎない。

たかが知れている。

愚かになれ。本当の智を得たければ愚者になれ。

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怪物

人間の中には「怪物」と呼ぶしかない部分が存在する。

完全な自己中心性、無慈悲、横暴、搾取・・・これらを良しとする部分が人間の中には必ずある。

歴史がそれを証明している。

動物には利己的な側面はある。それらは本能に基づくもので「獣」である。

人間にも利己心から来る「獣」の部分はある。

しかし、「怪物」はそれらとは次元が異なる。

動物には「怪物」の部分はない。しかし、人間にはある。

自分以外のものは全て道具程度にしか思えず、搾取することは当然で、利用するだけしてその後どうなろうとも全くどうでもよい、無慈悲さ。完全な自己中心性。究極的なエゴ。それが「怪物」である。

人間の根源的な部分に巣食い、根を張っている「怪物」がいる。

そしてまことに恐ろしいことに、理性の上に「怪物」と化している人間が現実に存在している。

「怪物」は一見魅力的で、麗しい。しかし、相手はこちらを人間とすら認識していない。

そんな人間には関わるべきでなない。一たび関われば魂までもしゃぶり尽くされる。

苦しみと自我

人生は苦しみに満ちている。

全てのものは流れて変化していく。

人間は、一つのものに固執しようとする。

一切が流転する理に逆らおうとするからこそ苦痛が生まれる。

自分そのものも常に変化していく。「自分」というものに固執しようとすればするほど苦しみが増す。

その意味で、自我と呼ぶような固定されたものは本当は存在しないのかもしれない。概念として人間が作り出したものに過ぎないのかもしれない。

変化しない自我など存在しない。自分という実態は不変の「自我」ではなく、変化し、連続した自分の寄せ集めに過ぎないのかもしれない。

人間には本能があり、本能が欲望を生み出す。仏教では煩悩という。欲望は決して満ちることはない。決して満たされない欲望を満たそうとすることそのものが苦痛である。

究極的には我を消せば欲が消え、苦痛から解放される。

しかし、悟りに達することは出来ない。

この世の全ては変化し、相互に影響を及ぼし合っている。

ならばせめて自分のものは一時的なもので自分の所有ではなく、自分ですら一時的なものに過ぎないことを知ろう。

純粋であるな

社会で生きるということは綱渡りをすることである。

社会は邪悪という名の強風で吹き荒れている。

純粋さは尊いが、純粋な心ではすぐさま食い殺される。

賢くあれ。警戒を怠るな。知恵が大切だ。

目に見えているものは真ではない

愚か者は自分の目に見えた者だけを信じる。それを疑おうともしない。

目に見えているものが真実だとは限らない。

聞こえているものが正しいとは限らない。

何故、自分の認識が間違っているかもしれないと疑わないのか。

自分が見ている者と他人が見ている者は同じではない。

理解が共通している訳ではない。

自分の認識は自分だけのものに過ぎない。

疑え。自分の前提を疑え。自分の認識を疑え。

豊かな時こそ 貧しい時こそ

生活が豊かな時は窮乏を忘れてはならない。

今の生活が無限に続くわけではない。今立っている土台がいつまでもあるわけではない。

豊かな時こそ、貧しさを心に留めよ。

しかし、貧しさに囚われてはならない。

貧しさに魂を食い尽くされるな。

人間性と尊厳を貧しさに蝕まれる。

さもないと現在を失い、死ぬまで「窮乏」という牢獄に囚われたままになる。

豊かさと貧しさを正しく自分の管理下に置かなければならない。

豊かな時こそ自惚れず貧しさを忘れるな。

貧しい時こそ心を豊かにせよ。

人生の目的

本能というのはとても大切である。

我々は本能から決して離れることは出来ない。

しかし、本能に人生を乗っ取られてはならない。

我々は人間である。本能が人生の主体者ではない。

理性が与えられていることを忘れるな。理性を携えた「自分」が人生の主体者なのである。

快楽が人生の中心なのではない。

自分の魂を「欲望」という化け物の餌にしてはならない。

最も汚れたもの

最も汚れたものは人間の心である。

色々な思想やルールが人間にレッテルを張り、その人を忌み嫌う。

レッテルを張られた人は社会的、心理的に疎まれる。

まるでその人自身が汚れているかのように扱われる。

しかし、本当にそうなのだろうか。

その汚れは本当に彼からきているものなのだろうか。

その汚れは作り出されてはいないか。

レッテルを張り、汚れを作り出してるのは人間の心そのものである。

清めの儀式を行ったり、清浄化するような儀式を行ったとしても人間の心は清められない。

表面だけを清めても、心までは清められない。

死と神を恐れる必要はない

哲学者エピクロスの言葉であるが、「死は私たちには無関係である。何故なら私たちが存在している時には死はやって来ないし、死がやって来る時には私たちは存在しないからである。」

私たちは誰も自分の死を経験することは出来ない。死に至る過程が恐ろしいのであり、私が死ぬ時に私は存在しない。だから、経験するはずのないことを恐れる必要はない。死への恐れは、想像力の生み出す妄想である。

また神を恐れる必要もない。神が存在して祈りが聞き届けられ、願いがかなうなら、世界は既に完全になっているか、既に滅びているかのどちらかである。どちらも起こっていないということは、神は存在していないということである。だから、地獄を恐れる必要もない。存在しないものを恐れる必要はない。神への恐れも、想像力の生み出す妄想である。

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