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たまにの暮らし‐tamany‐

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哲学

怪物

人間の中には「怪物」と呼ぶしかない部分が存在する。

完全な自己中心性、無慈悲、横暴、搾取・・・これらを良しとする部分が人間の中には必ずある。

歴史がそれを証明している。

動物には利己的な側面はある。それらは本能に基づくもので「獣」である。

人間にも利己心から来る「獣」の部分はある。

しかし、「怪物」はそれらとは次元が異なる。

動物には「怪物」の部分はない。しかし、人間にはある。

自分以外のものは全て道具程度にしか思えず、搾取することは当然で、利用するだけしてその後どうなろうとも全くどうでもよい、無慈悲さ。完全な自己中心性。究極的なエゴ。それが「怪物」である。

人間の根源的な部分に巣食い、根を張っている「怪物」がいる。

そしてまことに恐ろしいことに、理性の上に「怪物」と化している人間が現実に存在している。

「怪物」は一見魅力的で、麗しい。しかし、相手はこちらを人間とすら認識していない。

そんな人間には関わるべきでなない。一たび関われば魂までもしゃぶり尽くされる。

愛を教える宗教

愛を良いものと教える宗教がある。

神の愛を至上の救いとする宗教がある。

しかし、ほんとうにそうだろうか。

たしかに、愛は人やものを大切にする。

しかし、愛の性質とは本質的に独占欲と執着心からできている。

どちからというとネガティブな側面から来る感情である。

自分のものである、自分にとって大切だから愛があるのであって、関係性が無ければ愛など生まれない。

独占欲と執着心からくる庇護であって、裏切られれば恨みや怒りに変わらないだろうか。

これはユダヤ教の神、キリスト教の神の姿そのものだろう。

それらの宗教の神は人間の完全な自由と自律を望んでなどいない。あくまで自分のものであり、自分のもとから離れず、裏切らない人間だけに与えられる愛と庇護である。裏切者には神の怒りと地獄が待っているのである。

信じている人だけが救われて、信じていない人間は救われないという構図そのものが、正にこれらの神の愛の性質を表しているだろう。

自分のものである人間だけは救うが、そうでない人間などどうでもよいのである。

なんて狭い心、恐ろしいまでの独占欲と執着心なのだろうか。

人間の自由、人間の自立を完全に否定し、自分の作った檻の中に閉じ込めて可愛がろうとすることが、それらの宗教が説いている愛なのである。

苦しみと自我

人生は苦しみに満ちている。

全てのものは流れて変化していく。

人間は、一つのものに固執しようとする。

一切が流転する理に逆らおうとするからこそ苦痛が生まれる。

自分そのものも常に変化していく。「自分」というものに固執しようとすればするほど苦しみが増す。

その意味で、自我と呼ぶような固定されたものは本当は存在しないのかもしれない。概念として人間が作り出したものに過ぎないのかもしれない。

変化しない自我など存在しない。自分という実態は不変の「自我」ではなく、変化し、連続した自分の寄せ集めに過ぎないのかもしれない。

人間には本能があり、本能が欲望を生み出す。仏教では煩悩という。欲望は決して満ちることはない。決して満たされない欲望を満たそうとすることそのものが苦痛である。

究極的には我を消せば欲が消え、苦痛から解放される。

しかし、悟りに達することは出来ない。

この世の全ては変化し、相互に影響を及ぼし合っている。

ならばせめて自分のものは一時的なもので自分の所有ではなく、自分ですら一時的なものに過ぎないことを知ろう。

世界と社会

世界はこうである、という理解は決して共有化されない。

自分の世界は自分だけのものである。

なぜなら、この世界を認識しているのは自分だけであるからである。

人は、他人の認識している世界を決して自分のものとして認識できない。

世界は一人ひとり違う。

あなたの見えているものと、私の見えているものは違う。

あなたの認識している世界と、私の認識している世界は違う。

あなたの生きている世界と、私の生きている世界は違う。

しかし、私たちは違う世界に生きながら、共に生活している。

異なる世界にいるが、すれ違ってはいる。それが社会である。

社会は異なる世界に住む者が、すれ違いながら生きている場である。

目に見えているものは真ではない

愚か者は自分の目に見えた者だけを信じる。それを疑おうともしない。

目に見えているものが真実だとは限らない。

聞こえているものが正しいとは限らない。

何故、自分の認識が間違っているかもしれないと疑わないのか。

自分が見ている者と他人が見ている者は同じではない。

理解が共通している訳ではない。

自分の認識は自分だけのものに過ぎない。

疑え。自分の前提を疑え。自分の認識を疑え。

循環社会と自然との共生

実りあるものを全て奪い尽くしてはいけません。収穫のときに作物を全て刈り尽くしてはいけません。

これは比喩的表現ですが、私たち人間に向けられたあらゆることへの注意喚起です。 “循環社会と自然との共生”続きを読む

省みるのは自分自身

他者についてあれこれ言ってはならない。

世の中には他者についてあれこれ言って、評価したり非難したりする人間がいる。

そんな人間はほとんどの場合、どうでもよい程枝葉末節なことを取り上げる。 “省みるのは自分自身”続きを読む

豊か過ぎず、貧し過ぎず

人生において、二つのことが不要である。

豊か過ぎることと、貧し過ぎることである。

暮らしに必要なだけの衣食住と経済力があれば十分である。

過不足の無い生活こそが最も穏やかな生き方である。 “豊か過ぎず、貧し過ぎず”続きを読む

自分を見極め、コントロールせよ

私たちは大抵、自分というものを理解していない。

意外なことに、人生というものは自分を理解できなくても生きることは出来る。しかし、それはただ漫然と生きていることに近い。 “自分を見極め、コントロールせよ”続きを読む

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