5.原始神道のカミ観
縄文人は、豊かな感受性を持ち、ものの本質を見抜くことに長けた人々でした。彼らは、「物」の奥に隠されている本質・霊性を感じ、力ある「モノ」として尊びました。畏怖と畏敬の感情は、自分たちの生活領域に関わるモノ全てに対してありました。
いつの頃か、日本人は神聖な感情や畏れ引き起こすモノをカミと呼ぶようになりました。本居宣長は『古事記伝』において「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」[1]とカミを定義しています。
つまり、尋常ではなく偉大で、凄まじい力(エネルギー)を持っているものはどんなモノでもカミになる可能性があるということです。それも、良いものだけでなく、悪いもの、妖しい(怪しい)ものも、人間も区別なく、可畏(かしこ)ければ全てがカミになるということです。だから、日本には数えきれないほどのカミがいます。日本に八百万の神がいるとは正にこのことの故にです。