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たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

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視点

自己中心力

今を生きるためには自己中心力が必要です。

現代に生きる人々の多くは、他者に気を使って生きています。人間関係を気にし、他人がどんな気持ちか慮り、自分の発言や行動に常に注意します。それだけなら良いのですが、自分の行動パターンやスケジュール、はたまた思想までも他人に合わせて生活していかなければならない世の中です。

今の世の中ではこの様な他人に合わせるスキルをあたかもコミュニケーション能力と理解されています。他人とコミュニケーションを取るためにはすべからく他者と合わせて生活しなければならないという風潮もあります。大げさなと言われる方もいるかもしれません。しかし、あなたは何故SNSを始めたのですか?あなたの趣味は本当に自分の好みから始めたものですか?今の交友関係は?仕事は?趣味や信仰のグループで考え方や思想は? “自己中心力” の続きを読む

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スローライフ

人生というのは効率よく生きるだけが全てではない。

一つの目的に向かって情熱的に、全力疾走するのも素晴らしい生き方である。しかし、長い人生の中でガス欠になることもある。躓くこともある。逆風に晒されることもある。

そんな時には立ち止まることが必要である。そして自分自身と対話してみることが大切である。 “スローライフ” の続きを読む

深淵からの復帰

私はキリスト教世界に生きていました。

以前の投稿をお読みになった方ならば、私がどの様な世界に生きており、また現在キリスト教に対してどの様な感情を抱いているのかお分かりだと思います。

キリスト教の世界では、神・主イエスへの服従が尊ばれ、その生き方に向かって歩むのがクリスチャンの人生の目的とされています。それ自体は素晴らしい生き方だと思います。しかし、日本のキリスト教の教育は歪んでいます。自己謙遜という名目で、実際上は自己卑下の生き方を徹底的に教え込まれます。自分を価値の全くない罪人として、尊厳を全て剥奪され、だから神の救いが必要なのだ、神の救いがなければ生きていけないのだと叩き込まれます。それは教会学校であったても、説教であっても、神学校であっても同じ教育です。 “深淵からの復帰” の続きを読む

孤独の大切さ

人間は関係の生き物であると言われている。

人間は誰かと繋がることで大切なものを共有し合い、お互いに支え合えることができる。人間は誰かと関係することで人間らしさを知り、また発揮することができる。誰もいないところでは人間らしさを発揮できない。人間の心というものは、人間同士の連帯、社会性を発展させるために生まれたものであると聞いたことがある。

誰かと繋がったり、関係することは本当に大切なことである。人間は誰とも関わらない世界では生きていけない。

しかし、昨今の世の中は余りにも関係性が氾濫している。SNSの急速な発展によって、私たちは一昔前では考えられないほどの人々と繋がることが可能になってきた。世界中の人と繋がり、自分の能力を超えた交友関係を持つようになっている。1万人、2万人の人と「友達」となることもできる世の中になった。 “孤独の大切さ” の続きを読む

力の制限

前回の「瞑想の心得」の中でも触れた話でもあります。

私たちはそれぞれに人とは異なる能力を持っています。

一人ひとり、知的能力、創造力、コミュニケーション能力、並列思考能力、集中力、体力、精神的なエネルギー量などが異なります。

そして私たちは長く生きる中で自分の能力の限度や限界を知っています。

自分は集中力は高いが、同時に物事を考える並列思考は苦手だなあとか、創造力はあるんだけどどうもコミュニケーションを取るのが不得意だ・・・などです。

そのような自己分析をすることは大切です。自分の生活や仕事の中でなるべく失敗をしないように分をわきまえるということもあるでしょう。

しかし、今回私が語りたいことは、それらの自分の能力分析は本来の自分の能力よりも低く見積もっている可能性があるということです。 “力の制限” の続きを読む

過去を超える

人生は山あり谷あり。順調にいくこともあれば、逆境に晒されることもあります。当たり前のことです。

自分のミスや不注意から苦難に会うのならばある程度諦めや覚悟はできると思います。しかし、完全な不条理から到底受け入れられない困難に巻き込まれなければならないことも残念ながらあります。

その様な完全に打ちひしがれた状態から立ち直ることは本当に大変なことです。長い時間もかかるでしょう。多くの場合、自分に苦難をもたらした相手や出来事に対して怒り、憎しみ、復讐に燃えるでしょう。それは当然の感情です。そして、その感情が時に自分を立ち直らせる原動力になる場合もあります。その様な感情を無理に封印する必要もありません。 “過去を超える” の続きを読む

平和

平和とは『スーパー大辞林3.0』によると「戦争もなく世の中が穏やかであること」と書いてある。その様な説明を受けると、平和とは状態を表す概念だと思ってしまう。つまり、平和とは静的なものであるという認識である。しかし、私はそうは思わない。

現在、何を勘違いしてか、安全保障法と戦争法と決めつけ、やたら戦争反対と騒いでいる。私にはそれらの運動には黒い思惑が隠れているようにしか思えない。安全保障を充実させることが何故戦争に結びつくのか。

それは、彼らが平和という概念を勘違いして理解しているからではないか。

平和とは獲得概念である。平和とは自分たちで作り出し、手に入れていくものである。現在、世界的なリスクが高まり、国際的な緊張が高まる中にあって、その荒波から生き抜くためには自ら平和を獲得していくしかない。 “平和” の続きを読む

俯瞰

人生辛いこと、行き詰まることが連続すると、「もう駄目だ」と諦めて、嘆いてしまいたくなります。

1回や2回ならば、まだ耐えられますが、何回も続くと流石に限界がきてしまいます。

人生に失望する理由は人それぞれです。

一生懸命努力したのに報われなかった。周りから嵌められた。運がなかった。

取り返しのつかない過ちをしてしまった。今まで築いてきたものを台無しにしてしまった。

誰も理解してくれなかった。周りから評価されなかった。

自分の意志とは関係なく、病気で苦しめられている。

騙されて、何もかも失ってしまった。

“俯瞰” の続きを読む

認識について6

前回で「認識について」のお話は終わりました。

今回は前回までの認識についての話のまとめです。

A 「認識」の根源は「主体ー私」である。

B 「主体ー私」は本質的に相対的であり、不確定性を孕んでいる。(「主体」ごとに「私」であるという覚知が異なり、同一「主体」であっても加齢によって「私」であるという覚知が変化する)

C AとB故に、「認識」もまた相対的で不確定なものである。

D →認識不確定性原理

E 「感知」は「認識」を構成する一機能である。

F 「感知」は不完全である。(感覚器には限界があり、「感知」できなければ「外的存在」があったとしても、それは存在しないと同じ)

G EとF故に、「認識」もまた不完全である。

H →認識不完全性原理

I 他者と確定的で完全なる「認識」を共有するには、確定的な「主体」と完全なる「認識」が必要。

J DとH故に、原理的に他者と確定的で完全なる「認識」を共有する基盤を構築することは不可能である。

認識論

 

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