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たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

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たまに日々

愛を教える宗教

愛を良いものと教える宗教がある。

神の愛を至上の救いとする宗教がある。

しかし、ほんとうにそうだろうか。

たしかに、愛は人やものを大切にする。

しかし、愛の性質とは本質的に独占欲と執着心からできている。

どちからというとネガティブな側面から来る感情である。

自分のものである、自分にとって大切だから愛があるのであって、関係性が無ければ愛など生まれない。

独占欲と執着心からくる庇護であって、裏切られれば恨みや怒りに変わらないだろうか。

これはユダヤ教の神、キリスト教の神の姿そのものだろう。

それらの宗教の神は人間の完全な自由と自律を望んでなどいない。あくまで自分のものであり、自分のもとから離れず、裏切らない人間だけに与えられる愛と庇護である。裏切者には神の怒りと地獄が待っているのである。

信じている人だけが救われて、信じていない人間は救われないという構図そのものが、正にこれらの神の愛の性質を表しているだろう。

自分のものである人間だけは救うが、そうでない人間などどうでもよいのである。

なんて狭い心、恐ろしいまでの独占欲と執着心なのだろうか。

人間の自由、人間の自立を完全に否定し、自分の作った檻の中に閉じ込めて可愛がろうとすることが、それらの宗教が説いている愛なのである。

純粋であるな

社会で生きるということは綱渡りをすることである。

社会は邪悪という名の強風で吹き荒れている。

純粋さは尊いが、純粋な心ではすぐさま食い殺される。

賢くあれ。警戒を怠るな。知恵が大切だ。

豊かな時こそ 貧しい時こそ

生活が豊かな時は窮乏を忘れてはならない。

今の生活が無限に続くわけではない。今立っている土台がいつまでもあるわけではない。

豊かな時こそ、貧しさを心に留めよ。

しかし、貧しさに囚われてはならない。

貧しさに魂を食い尽くされるな。

人間性と尊厳を貧しさに蝕まれる。

さもないと現在を失い、死ぬまで「窮乏」という牢獄に囚われたままになる。

豊かさと貧しさを正しく自分の管理下に置かなければならない。

豊かな時こそ自惚れず貧しさを忘れるな。

貧しい時こそ心を豊かにせよ。

人生の目的

本能というのはとても大切である。

我々は本能から決して離れることは出来ない。

しかし、本能に人生を乗っ取られてはならない。

我々は人間である。本能が人生の主体者ではない。

理性が与えられていることを忘れるな。理性を携えた「自分」が人生の主体者なのである。

快楽が人生の中心なのではない。

自分の魂を「欲望」という化け物の餌にしてはならない。

最も汚れたもの

最も汚れたものは人間の心である。

色々な思想やルールが人間にレッテルを張り、その人を忌み嫌う。

レッテルを張られた人は社会的、心理的に疎まれる。

まるでその人自身が汚れているかのように扱われる。

しかし、本当にそうなのだろうか。

その汚れは本当に彼からきているものなのだろうか。

その汚れは作り出されてはいないか。

レッテルを張り、汚れを作り出してるのは人間の心そのものである。

清めの儀式を行ったり、清浄化するような儀式を行ったとしても人間の心は清められない。

表面だけを清めても、心までは清められない。

死と神を恐れる必要はない

哲学者エピクロスの言葉であるが、「死は私たちには無関係である。何故なら私たちが存在している時には死はやって来ないし、死がやって来る時には私たちは存在しないからである。」

私たちは誰も自分の死を経験することは出来ない。死に至る過程が恐ろしいのであり、私が死ぬ時に私は存在しない。だから、経験するはずのないことを恐れる必要はない。死への恐れは、想像力の生み出す妄想である。

また神を恐れる必要もない。神が存在して祈りが聞き届けられ、願いがかなうなら、世界は既に完全になっているか、既に滅びているかのどちらかである。どちらも起こっていないということは、神は存在していないということである。だから、地獄を恐れる必要もない。存在しないものを恐れる必要はない。神への恐れも、想像力の生み出す妄想である。

口数の多さ

口数が多い、おしゃべりが多いということはそれだけ失言のリスクも増えるということだ。

不必要なことまでも話してしまうかもしれない。

なかなか自分の口を制御することは難しい。

しかし、口数が多いということは、無駄な時間も多いということだ。

風 穏やかな陽気

穏やかな陽気の中で吹く柔らかな風は心地よい。

暖かい中で日に当たると、体の中から優しい気持ちが湧いてくる。

柔らかい風が体を撫でると、自分が自然に包まれている気持ちになる。

目の前の木々の緑すら優しく微笑んでいる気がする。

言いふらすな

 

自分の耳に入ってきたことを安易に言いふらすべきではない。

 

言葉には力がある。言葉の力を軽んじる出来ではない。

 

自分が発した言葉は独りでに歩いて、広がり始める。

 

自分が責任を持てない言葉は、自分の中で留めておくべきだ。

 

聞いたことを安易に話すと、口から出た言葉があらぬ形で自分に危害を加えるかもしれない。

 

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