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たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

ヶ月

5月 2016

健康

喉の風邪を引いて、一週間ぐらい声が出ませんでした。もともと喉が弱いので、一旦風邪を引くと喉の調子が戻るまでには時間がかかってしまいます。今もまだ完全に治っている訳ではありませんが、だいぶ良くなってきました。

さて、健康ではなくなってから改めて健康の大切さを知るということはありますが、私は逆に完全な健康は本当に珍しいとも思いました。

風邪ではなくでも、なぜか腕が痛むとか足が痛むとか、口内炎があるとか、肌が荒れているとか、何かしらの身体のトラブル(病気というほどでもないもの)があるはずです。

そのようなトラブルが完全にない健康な状態であるということは本当に稀なことです。

その意味で完全に健康であるということも珍しいものです。

私たちはある程度の体調不良を毎日抱えながら生活しているんだなと実感した今日この頃です。

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あるクリスチャン

今の私にとってみれば、ほとんどのクリスチャンは理性的な思考の足らない人か、偏った思想の持主にしか見えない。特に、聖職者と呼ばれる人々などは偽善者だらけだと感じてしまう。

しかし、最近、あるクリスチャンを思い出す。

その人は、クリスチャンではあったが、真に愛の行動に情熱を燃やしていた人であった。しかも、ずっとである。短い炎で燃え尽きるのではなく、愛に生きるのがこの人の人生なんだなと感じる。多くの牧師たちは口だけである。有り難い言葉を奨めておきながら、自分は愛を実践しない。偽善者である。しかし、その人は違った。口に出すよりも、愛を実践することの方が先だった。その人を見て、私は「この人の真似は出来ないな」と感じた。自分には真似できない生き方を素で実践している人に驚いた。私が出会った多くのクリスチャンの中で、もっとも聖人に近い人であろう。 “あるクリスチャン” の続きを読む

過去を超える

人生は山あり谷あり。順調にいくこともあれば、逆境に晒されることもあります。当たり前のことです。

自分のミスや不注意から苦難に会うのならばある程度諦めや覚悟はできると思います。しかし、完全な不条理から到底受け入れられない困難に巻き込まれなければならないことも残念ながらあります。

その様な完全に打ちひしがれた状態から立ち直ることは本当に大変なことです。長い時間もかかるでしょう。多くの場合、自分に苦難をもたらした相手や出来事に対して怒り、憎しみ、復讐に燃えるでしょう。それは当然の感情です。そして、その感情が時に自分を立ち直らせる原動力になる場合もあります。その様な感情を無理に封印する必要もありません。 “過去を超える” の続きを読む

何のために祈る

祈りとは、自分を超えた超自然的存在に向かって、語り掛け、願うことである。

人間が祈るのは、独力ではどうしようもない状況、手が届かない事柄に対して、超自然的存在の力を借りて事態を良い方向にもっていきたいという願いがあるからである。

例えば、宝くじで一等が当たるように祈る。宝くじが当たるか当たらないかは完全に確率の問題である。我々が何かを働きかけて変化することは無い。つまり、私たちの手の届かない事柄である。しかし、是非とも一等が当たってほしい。自分ではどうにもできないことに属しているが、自分に有利に事柄が傾いてほしい。ならば、自分の力を超えている超自然的存在や超自然的力を頼ることで、何か特別な力がかかり、特別な変化がもたらされるかもしれない。その様な願望が超自然的存在に対する祈りとなるのである。 “何のために祈る” の続きを読む

イエスという男

私が教会に仕えていたころ、イエス・キリストは神だと教えられていた。そもそもキリストとは救い主という意味である。イエスは救い主であると宣言することが、イエス・キリストである。

これはキリスト教の根幹をなす教えである。人間であるはずのイエスという男が神であると主張するところにキリスト教の特色がある。その主張抜きにはキリスト教の教えは全てが崩壊する。あの十字架上で死んだ男が実は神であった。神が私たちの救いのために死んだのだ。ここにキリスト教の核心がある。しかし、人間が神であるということは初めから無理のある論理である。キリスト教は、イエスは神であり同時に人間であると主張している。半人半神であるということでもない。100%神であり、100%人間であると主張している。異なる属性が同時に両立することありえない。論理的に破綻している。キリスト教の教義は決定的な矛盾を抱えていると言わざるを得ない。

しかし、キリスト教はそのことを認めるわけにはいかない。イエスが神でなかったら、十字架上で死んだのは一人の逆説的反抗者の死でしかなくなってしまう。そうなるとイエスの死は人類の救いでもなんでもなくなってしまう。神が人類の罪の為に死んだという論理の中でこそキリスト教の救いは成立するのであり、それがただの一人の男の死でしかなかったならば、無意味であり、何の意味もなさなくなってしまう。キリスト教の教え全体が根底から覆されてしまうからである。だからこそ、キリスト教はイエスの人性・神性の論理的な破綻・矛盾を認めることは絶対ない。
“イエスという男” の続きを読む

服従の構造

キリスト教が世界各国の植民地支配の前段階で宣教されていったのには理由がある。それはキリスト教会の教えが服従の構造を生み出してくれるからである。

キリスト教は神、キリストへの服従、愛、受容(または寛容)、忍耐を教える。これら一つ一つは素晴らしい道徳であり、これらを守り生活すればより豊かな人生を歩めるだろう。しかし、これは個人レベルの話しである。

民族とか国家という大きな枠組みでキリスト教の教えを受け入れてしまったならば、それは悲劇をもたらすことになる。

支配者にとって被支配者はなるべく自分たちに従順であることが望ましい。その次に望ましいのは不満を持ちながらもそれを爆発させずに反抗しない被支配者である。 “服従の構造” の続きを読む

次の世界の姿

今、アメリカ大統領候補としてトランプ氏の話題が頻繁に取り上げられています。

最初は、候補の中の冷やかし的な存在、変わったオジサン的な存在でした。

しかし、今や彼が大統領になる可能性が現実的なものになりつつあります。

トランプ氏が合衆国大統領となると世界はどうなるのか?

彼は明確の政治のヴィジョン、政策、公約を述べてはいません。これは意図的にそうしているのかもしれませんが・・・。彼の主張を大枠で総合すると、「俺は今までの政治家ができなかったようなことを成し遂げるぞ!とにかくアメリカを変える!」と意気込んでいると言えるでしょう。

トランプ氏は過激な発言を連発していますが、非常にしたたかな男です。 “次の世界の姿” の続きを読む

論語7

山田勝美『全釈論語』、貝塚茂樹『論語』、加地伸行『論語増補版』に準拠。感想は私的解釈。

為政篇3

〈通釈〉

先生が言われた。行政を法制のみに依ったり、治安に刑罰のみを用いたりするようでは、民はその法制や刑罰に引っかかりさえしなければ何をしても大丈夫だとして、そのように振舞ってなんの恥ずるところもない。しかし、その逆に行政を道徳に基づき、治安に世の規範を第一とすれば、心から不善を恥じて正しくなる。

〈感想〉

人間というものは、自然的態度では絶えず自己や自分の集団の利益を追求する生物である。何のルールもなしで野放しにしておくならば、ホッブズが提議したように万人の万人に対する闘争になってしまうだろう。つまり、各々が己の利益を求めようとして行動する。その結果、他者の利益を侵害することも厭わないだろう。しかし、この状態が恒常的に続いたならば、人間という種自体が自滅するという不利益を被ることになってしまう。これは避けなればならない。 “論語7” の続きを読む

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