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たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

ヶ月

3月 2016

キリスト教の発展と社会事業の関係3

3.キリスト教社会福祉事業の側面

①    特に日曜学校に注目して見ていきたい。

②    日曜学校は1780年に、イギリスのロバート・レイクス(1735-1811)がイギリスのグロスター市で貧しく悲惨な生活を送っていた子供たちに、読み書きやカテキズムを教えたのが始まりであった。レイクスは自ら発行する新聞「グロスター・ジャーナル」に日曜学校の記事を載せたので、広く世間に知られるようになった。 当時の日曜学校は慈善学校と同義であり、日曜日に6時間以上も開かれ、宗教教育はもちろん、一般初等教育が行なわれていた。

③    日本において日曜学校がもたらしたものは、教育を受ける機会を与えられていなかった子供たちに教育を与えたことである。また、日曜学校は子どもへの教育だけではなく、地域社会にも介入していき、社会構造の中で抑圧されていた人々や、女性、老人、孤児などにも支援し、希望を与えた。

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科学の証明と数学の証明

以下はサイモン・シン『フェルマーの最終定理』P, 56-P, 64の要約です。

数学の証明は、私たちが口にするいわゆる「証明」や物理学者や化学者の考える証明よりもはるかに強力かつ厳密である。科学的証明とは数学的証明とは、微妙であるが重大な点で異なっている。

数学の定理は論理的なプロセスの上に成り立っており、一度証明された定理は永遠に真である。数学における証明は絶対である。

科学は、ある自然現象を説明するために仮説が立てられ、その現象を観察した結果が過程と合っていれば、その仮説にとってプラスの証拠になる。 “科学の証明と数学の証明” の続きを読む

キリスト教会の発展と社会事業の関係2

2.政府側の事情

①    明治の日本は、維新以来、欧米の文化・技術を取り入れることで急速に発展していった。列強に追いつけという精神で必死であった。それによって、日本の近代国家体制、近代社会の体制がつくられていった。しかし、重要なことが残されていた。それは中身である。近代国家体制の中身、アイデンティティ、つまり、天皇中心とした国家体制を更に強固なものにする必要があった。

②    また同時に、明治政府は宗教の扱い方、国としての管理の仕方を長年模索してきた。1868年から1872年は祭政一致の時代があり、次いで1872年から1882年まで政教一致があり、公認教制度が1882年以降生まれたが、1889年には政教分離が叫ばれた。これだけ見ても、明治政府は宗教を国家にどう位置付ければよいのか、迷っていた、試行錯誤していたことがよく分かる。

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キリスト教会の発展と社会事業の関係

①    明治時代の社会(福祉)事業家にはやたらクリスチャンが多いことが分かる。

  • 石井十次(岡山孤児院)、片山潜(キングスレー館)、留岡幸助(家庭学校、感化事業)、賀川豊彦(セツルメント、『死線を超えて』)、山室軍平(日本救世軍、廃娼運動)などがいる。

②    実は、明治から大正にかけての日本におけるキリスト教の普及、教会の設立にはキリスト教社会(福祉)事業が大きな役割を果たしている。

1.教会側の事情

①    普通は、宣教師や牧師などが説教してキリスト教を日本に広め、定着させたと考えられているが、実はそうではない。日本のプロテスタントの歴史において、最初期は牧師などによる宗教活動はほとんど無力であった。徒労に終わった。

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人生の価値

人生の価値とは何か?

どれだけ成功してきたか。どれだけ多くの財を築けたか。その様なものを人生の価値だと考える人が多くいる。

しかし、私はそうは思わない。

そもそも人生というのは他人によって価値が決められるようなものではない。

自分の人生の価値を決めるのは自分自身である。

自分の人生にどれほどの価値があるのかということで悩んでいる人がいたらこう言いたい。

人生の価値を他人と比較すること自体が間違いであると。

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平和

平和とは『スーパー大辞林3.0』によると「戦争もなく世の中が穏やかであること」と書いてある。その様な説明を受けると、平和とは状態を表す概念だと思ってしまう。つまり、平和とは静的なものであるという認識である。しかし、私はそうは思わない。

現在、何を勘違いしてか、安全保障法と戦争法と決めつけ、やたら戦争反対と騒いでいる。私にはそれらの運動には黒い思惑が隠れているようにしか思えない。安全保障を充実させることが何故戦争に結びつくのか。

それは、彼らが平和という概念を勘違いして理解しているからではないか。

平和とは獲得概念である。平和とは自分たちで作り出し、手に入れていくものである。現在、世界的なリスクが高まり、国際的な緊張が高まる中にあって、その荒波から生き抜くためには自ら平和を獲得していくしかない。 “平和” の続きを読む

教会と日本人

日本のクリスチャンとは何故ここまで日本が嫌いなのだろうか。

私は長年キリスト教会の世界で生きていたので身に染みるほど感じたが、日本の教会とクリスチャンは徹底的に日本が嫌いなようである。ほとんど画一化された傾向である。クリスチャンである限り、日本を嫌いにならなければならないというのか。徹底的に日本を非難し、貶める。よくもまあここまでやるなと思うぐらいである。

私はその様な風潮に飽き飽きしている。クリスチャンであっても何故、日本を好きであると言ってはならないのか?日本人なのだから、日本が好きであっても良いではないか。

しかも、彼らが日本のことが嫌いなのは、事実誤認、改竄された歴史が理由になっている。真実や事実に基づいた上での「好き・嫌い」なら分かるが、そうでないものに基づいて断罪されるのはたまらない。彼らにとっては、クリスチャンになるということは、日本人を辞めるということなのだろう。

教会は多様な考えを受け入れない。特定の思想に支配されている。その思想に従わない限り、教会に属し、クリスチャンとして生活は出来ない。恐ろしい場所である。言論統制が敷かれている社会である。まるで、あの社会に生きているようである。

以前の投稿でも書いたが、教会は極左的思想を持った団体であり、反社会勢力である。

日本人であることと、クリスチャンであるということは両立できないのか。

日本人であるということ

戦後70年以上が経ち、世の中は社会構造、思想、教育が戦前・戦中と大きく変わった。時代が変わるのだから、社会やそこで生きる人々が変化していくのは当然である。しかし、私たちが日本人であるという根本的なところは変わらない。

私は、戦後直後から現在に至るまでの社会の変化に疑問を感じる。端的に言えば「嫌なもの」を感じる。戦後直後から始まった、日本に対する明らかな社会構造や思想・教育への意図的な変更、歴史認識の改竄が行われたことに強い不満を感じる。

今の世の中は明らかに左翼的思想に偏っている。そのことにどれほどの人が気付いているだろうか。殆どの人たちは自分たちが学校教育で学び、育てられていったことが中立的な立場からのもので、それが真実だと思っているだろう。しかし、それらの教育は左翼的からの立場の教育であり、左翼的思想によって歪められたものである。だから、世の中に出回っており、広く信じられている事柄が中立的・中庸なものだとは限らない。

この様な発言をすると、直ぐに右翼的・極右的だと断じられる。しかし、その様な発想に至ってしまう思考が既に左翼的歪められたものであると気付かなければならない。私の発言は右翼的なものではない。中立的な立場からのものである。中立的な立場が右に寄っていると思えてしまうのは、あなたの立場が既に左に寄っているという証拠である。

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交流分析5

7.人生脚本の分析

交流分析では、人生を「一遍のドラマのようなもの」と理解し、皆自分なりの脚本を持っていて、その脚本に書かれている役割に基づいて、人生という舞台で演じている、と考えています。

そして、この人生脚本とは「無意識の人生計画」であり、私たちの幼児期の幼児決断によって人生脚本テーマが決定されていくのです。

そして、人間は人生の重大な岐路に立たせられる時、この脚本に基づいて決断をしていきます。

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