2.自我状態の分析
交流分析においては、人は誰でも自分の中に3つの心、心理的現実を持っており、これを知ることによって人間の心と行動を分析することができます。
交流分析は、人間の心を3つの部分と5つの機能で成り立っていると考えています。
3つの部分とは、P(Parent)=親の自我状態、A(Adult)=成人の自我状態、C(Child)=子どもの自我状態のことです。 “交流分析2”続きを読む
交流分析においては、人は誰でも自分の中に3つの心、心理的現実を持っており、これを知ることによって人間の心と行動を分析することができます。
交流分析は、人間の心を3つの部分と5つの機能で成り立っていると考えています。
3つの部分とは、P(Parent)=親の自我状態、A(Adult)=成人の自我状態、C(Child)=子どもの自我状態のことです。 “交流分析2”続きを読む
日常生活の中で最もストレスのかかるものは人間関係であると言われています。
皆さんも、人と関わっている中で、自分と他人との微妙な差異に違和感を感じると思います。それは考え方だけではなく、相手の反応、態度、仕草など細かいところからも感じます。
何故、あの人はこんな行動をするのだろうか?
良かれと思ってやったのに、あの態度はなんだ?
理由は分からないが、あの人と付き合うのが苦手だ。
今回からのシリーズでは、そういった対人関係の難しさを理解するために、交流分析という視点から、自分を知り、他者を知るということを学んでいきたいと思います。
交流分析(transactional analysis)とは、1950年代後半にアメリカの精神科医であるエリック・バーン(Eric Berne 1910-1970)によって始められた心理療法理論です。 “交流分析1”続きを読む
まーやーさんから頂いた聖餐の質問の続きと結論です。
Tama:もう一つ。これは面白いものがあります。これは聖餐式のみならず聖礼典全体に関わることです。聖礼典の効力というものは、それを執り行う者に左右されないという理屈があります。つまり、聖礼典を執行する者の性質を問わないということです。
例えば、執行者が不信仰であろうと、なかろうと、聖礼典は有効であると理解されています。何故なら、聖礼典の根拠は御言葉だからです。聖礼典の真の執行者は主であって、礼拝で執行する人間というのは単なる道具、神と聖礼典をつなぐ管であるという考えです。
これは、キリスト教の迫害の歴史の中でどうしても解決しないといけない問題から生まれた考えです。ローマ時代の迫害の時に聖職者を含めた多くのクリスチャンが躓きました。その時に問題になったのは、迫害によって躓いた、棄教した聖職者から洗礼とか聖餐という聖礼典を受けた信徒たちが「あの時、自分たちは洗礼を受けたけれども、あの躓いた聖職者から受けた聖礼典は有効だったのか。もう一回洗礼を受け直さないといけないんですか」という議論が起きました。
この混乱はかなり大きなものであったので、収拾を着けるために、「聖礼典は御言葉に根拠のある儀式だから執行する人間の属性に左右されることはない」と説明することで、なんとか事を収めたという経緯がありました。神学論争でいうところの人効説か事効説かということですね。アウグスティヌスの時代の大論争でした。
“Tama×まーやー キリスト教質問8-3”続きを読む
聖餐式の質問の続きです。今回はキリスト教会の論理をそのまま紹介しているので、知らない人には分かりにくい話ですし、つまらないと思いますがご了承ください。
Tama:そして、聖餐式というのは実は、各教派によって解釈が異なっています。特にカトリックとプロテスタントでは聖餐式自体の意味付けが違います。
まず、カトリックは礼拝のことをミサといいますが、カトリックにとって聖餐式、聖体拝領のないミサはミサとは言えないんですね。ですからプロテスタントのように月に一回礼拝の中で聖餐式をしますということはカトリックにとってはあり得ません。聖餐式・カトリックの言葉でいうところの聖体拝領の位置づけはプロテスタントと全然違います。
カトリック教会とってミサとは即ち聖体拝領のことなんですね。そして、カトリック教会では、ミサ毎にイエスの十字架の出来事が起こっている、聖餐はイエスの十字架の出来事の再現であると理解されています。つまり、聖餐は神へのイエス・キリストの犠牲、イエス・キリストという捧げものと理解されています。一方プロテスタント教会では、聖餐とは神からの私たちへの恵み、神から私たちに与えられたもの、神から私たちへのサービス(奉仕)と理解されています。
質問8つ目
まーやー:Tama先生、今日もよろしくお願いします。前回は洗礼についてお話を伺いました。今日はそれに続きまして、聖餐式についてお話を伺いたいと思います。聖餐式というのは、礼拝の中でも重要な部分になっていると思います。
具体的には、パンとぶどう酒が出てきまして、それを私たちが頂くということだけなんですけれども。時々教会では聖餐式の時にミスが起きたりするんですね。そうしますと、そのミスを大変重大なものとして扱うということがあります。
それは、順番を間違えたり、ある時には牧師がジーパンで配餐するということもありました。それについて長老さんが大変怒ったということもありました。そういうことを考えますと、クリスチャンにとってこの聖餐式というのは大変大きなものであるということが伺えます。
また、他の宗教には、皆が一つのパンなり飲み物なりを食べるという儀式は私は聞いたことがないんですね。そうすると、聖餐式が他の宗教と比べて特異的なもののような気がしてなりません。ざっくばらんに、簡単に、分かりやすく説明して頂ければと思います。
Tama:聖餐とか聖餐式についてということですね。聖餐式というのは、確かにキリスト教に独自の儀式と言えると思います。特に、ぶどう酒をキリストの血、パンをキリストの体として頂くという宗教的な行為というのはキリスト教独自のものだと思います。むしろ、聖餐式という儀式が礼拝の中にあるということが、キリスト教とユダヤ教の明確な違いです。キリスト教をキリスト教としている儀式とも言えるでしょう。 “Tama×まーやー キリスト教質問8-1”続きを読む
山田勝美『全釈論語』、貝塚茂樹『論語』、加地伸行『論語増補版』に準拠。感想は私的解釈。
學而篇16
〈通釈〉
先生が言われた。「人が自分を認めてくれないのは一向に気にならないが、自分が人を理解していないのではないかと心配だ」。
〈要旨〉
孔子が対人関係において常に謙虚であろうと努力したこと、孔子の控えめな心持をよく示している。
〈感想〉
貝塚茂樹『論語』によると、「孔子の弟子には学問によって認められ、立身出世しよという人間が多かった」(P, 28)という。そんな弟子たちに向けられた言葉だと言えるでしょう。 “論語6”続きを読む
前回の洗礼の質問の続きです。前回では、主に洗礼の歴史についてお話しました。今回は、洗礼の教会にお行ける現状です。
まーやー:今まで、洗礼の歴史や定義についてお話頂きました。実際に教会に通っている人からすると、洗礼を受けませんかと言われたとき、洗礼を気軽に受けてしまっていいのか、受けた後辞めたいと思った時にどうなってしまうのだろうという不安があるのですけれども、いかがでしょうか。
Tama:そうですね。洗礼を受けるということは、人生にとって非常に重大な意味があります。前回の質問の時に既に答えましたが、キリスト教の信仰を持つということ自体が、日本人としての意識を飛び越えることが必要であると言いました。洗礼を受けるということは、それ以上の意味を持つんですね。つまり、キリスト教の神を信じる、イエス・キリストの復活を信じるということ、そして教会のメンバーシップ・構成員になることを意味しています。自分が今までとは違うグループに属する、その様な属性を自分が持つということが、明確な形になる訳ですね。
質問7つ目
まーやー:それではTama先生、次の質問をお願いします。洗礼について伺いたいと思います。どういったものなのかを教えてくださればと思います。
Tama:洗礼というのは、キリスト教会においては、イエス・キリストを救い主であると信じる、三位一体の神を信じると告白して、神の救いに与り、教会のメンバーシップになるという儀式であると理解されています。しかし、洗礼の歴史を遡ってみますと、元々はユダヤ教に起源を見ることができます。
ユダヤ教では洗礼者ヨハネが出てくる何世紀も前から儀式的な清めの行為として行われてきました。水を用いての清め、沐浴、浸礼が行われており、罪やけがれを洗い流す儀式、文字通り洗う儀礼だったと言えます。旧約聖書のレビ記14章、民数記19章に水を用いた清めの儀式について書かれています。 “Tama×まーやー キリスト教質問7-1”続きを読む
前回の質問6つ目の続きの続きです。今回が、この質問の結論です。
まーやー:そうしますと、キリスト教に限っての話ですけれども、神は虚像である、人間が作り上げたものであるという認識に至ると私は思いました。
Tama:そういう認識でいいと思います。ただもう少し詳細に見ることもできます。私は「認識論」というものを唱えています。「認識論」について、ごく簡単に説明します。私たちが今生きていると感じているこの世界、もしくは目の前にあるボイスレコーダーとか机とかは、私という存在の外に、客観的に存在しているものだと思っているかもしれません。しかし、その見え方、私たちが今認識しているものは全て私自身の「認識」が「構成」し、作り出したものなんですね。私が見たり、聞いたり、触れたり、感じたりしている世界と、他の誰かが見たり、聞いたり、触れたり、感じたりしている世界は同じように思うかもしれませんが、実はそれぞれ違うということですね。