本能というのはとても大切である。
我々は本能から決して離れることは出来ない。
しかし、本能に人生を乗っ取られてはならない。
我々は人間である。本能が人生の主体者ではない。
理性が与えられていることを忘れるな。理性を携えた「自分」が人生の主体者なのである。
快楽が人生の中心なのではない。
自分の魂を「欲望」という化け物の餌にしてはならない。
本能というのはとても大切である。
我々は本能から決して離れることは出来ない。
しかし、本能に人生を乗っ取られてはならない。
我々は人間である。本能が人生の主体者ではない。
理性が与えられていることを忘れるな。理性を携えた「自分」が人生の主体者なのである。
快楽が人生の中心なのではない。
自分の魂を「欲望」という化け物の餌にしてはならない。
最も汚れたものは人間の心である。
色々な思想やルールが人間にレッテルを張り、その人を忌み嫌う。
レッテルを張られた人は社会的、心理的に疎まれる。
まるでその人自身が汚れているかのように扱われる。
しかし、本当にそうなのだろうか。
その汚れは本当に彼からきているものなのだろうか。
その汚れは作り出されてはいないか。
レッテルを張り、汚れを作り出してるのは人間の心そのものである。
清めの儀式を行ったり、清浄化するような儀式を行ったとしても人間の心は清められない。
表面だけを清めても、心までは清められない。
哲学者エピクロスの言葉であるが、「死は私たちには無関係である。何故なら私たちが存在している時には死はやって来ないし、死がやって来る時には私たちは存在しないからである。」
私たちは誰も自分の死を経験することは出来ない。死に至る過程が恐ろしいのであり、私が死ぬ時に私は存在しない。だから、経験するはずのないことを恐れる必要はない。死への恐れは、想像力の生み出す妄想である。
また神を恐れる必要もない。神が存在して祈りが聞き届けられ、願いがかなうなら、世界は既に完全になっているか、既に滅びているかのどちらかである。どちらも起こっていないということは、神は存在していないということである。だから、地獄を恐れる必要もない。存在しないものを恐れる必要はない。神への恐れも、想像力の生み出す妄想である。
口数が多い、おしゃべりが多いということはそれだけ失言のリスクも増えるということだ。
不必要なことまでも話してしまうかもしれない。
なかなか自分の口を制御することは難しい。
しかし、口数が多いということは、無駄な時間も多いということだ。
穏やかな陽気の中で吹く柔らかな風は心地よい。
暖かい中で日に当たると、体の中から優しい気持ちが湧いてくる。
柔らかい風が体を撫でると、自分が自然に包まれている気持ちになる。
目の前の木々の緑すら優しく微笑んでいる気がする。
自分の耳に入ってきたことを安易に言いふらすべきではない。
言葉には力がある。言葉の力を軽んじる出来ではない。
自分が発した言葉は独りでに歩いて、広がり始める。
自分が責任を持てない言葉は、自分の中で留めておくべきだ。
聞いたことを安易に話すと、口から出た言葉があらぬ形で自分に危害を加えるかもしれない。
人生、楽に過ごしたい。それが最高の願いであり幸福だ。
しかし、実際人生は楽ではない。
辛いこと、嫌なこと中に楽なことがある。
人生における苦痛の意味とは何か。苦痛があるから楽を満喫できる。
楽なことだけだと、「楽」の意味を知ることができない。
しかし、苦痛だけだと心身がすり減ってしまう。楽があるから回復できる。
人生における苦痛は、人生にメリハリをもたらす。逆に楽は人生における喜びをもたらす。
人間の心は深淵である。深すぎて覗くと恐怖を感じる。
瞑想によって、意識にある幾万もの雑念を通り過ぎて沈み込む。
すると深淵と呼ぶべき、深く暗く、覗いても底が見えない大きな淵に辿り着く。
心の深淵には狂気がある。誰にでも狂気がある。それは奥底に秘められている。
深淵とその中にある狂気を恐れずに覗き、足を踏み入れる。
そこは凄まじいエネルギーの本流である。無意識のエネルギーの本流である。
そこから更に進むと、無意識に繋がる枝に辿り着く。
そこから先は言語化不能である。
人間の人となりは顔と目に表れる。
顔を見ればだいたいその人間が分かる。
少なくともその人間が信用できるかできないか分かる。
卑怯な生き方をしてきた人間の顔は醜悪である。
笑っていても目は笑っていない。獰猛な肉食獣の様な目をしている