「認識について4」の続きです。
前回は「主体」は「認識」・「内的存在」の根源であることを述べました。
私たちは「主体=私」があることで、そもそも「認識」することができます。
そして、また「主体」の覚知は一人ひとり異なるということもお話しました。
今回は、いよいよ結論である、認識不確定性原理、認識不完全性原理について述べます。
1. 認識不確定性原理
まず、認識の不確定性について。
「主体」が違えば、「私」であるという覚知も異なります。これは「主体」の相対性と言い表せます。
また、「主体」の「私」である覚知も常に絶対的ということはあり得ません。「主体」そのものが常に不確定性を孕んでいるのです。それは成長や老化などによる「主体ー私」自身の変化が起こりうるからです。
今までの「認識について」の自論の展開から導き出せることは、「認識」とは「主体」ごとによって異なるものであるから、根本的に相対的であり、また不確定であるという事実です。
「認識」に絶対性は、原理的にあり得ません。なぜなら、「認識」は本質的に「主体」から生まれるものであり、「主体」ごとに「私」であるという覚知は異なる相対性があり、「主体」そのものが不確定性を孕んでいるからです。
他にも、周辺的な部分から「認識」が相対的であり、不確定であることを示すことができます。
「感知」というハードウェアから言えば、感覚器の働きの違いによっても「認識」の相違が生まれます。
絶対的な感覚器は存在せず、感覚器は一人ひとり相対的であり、不確定です。
また、「識別」というソフトウェアから言っても、刺激(=情報)の区別の仕方によって「認識」の相違が生まれます。もっと言うならば、「内的原存在」の違いも「認識」の相違を生みます。
「認識」とは相対的で不確定な「主体」が作り出すものであるので、「認識」もまた相対的であり、不確定です。これが、原理的に導かれる「認識」というシステムの根源的な欠陥です。
私は、「認識」の不確定性を、認識不確定性原理と呼ぶことにします。
認識不確定性原理のゆえに、私たちは決して絶対的な「認識」を持つことはできません。
「私」の「認識」は常に他者と相対的です。また、「私」の「認識」自体も決して絶対的ということはできず、常に不確定なのです。
2. 認識不完全性原理
もう一つ「認識」の根源的な欠陥を上げることができます。
それは、認識の不完全性です。
「感知」についての説明の時に既に述べましたが、大切なことなので繰り返します。
「感知」できないものは、たとえ刺激(=情報)の元となる「外的存在」があったとしても、「内的」には存在しないことと同義です。
逆に、「感知」できないが存在する「外的存在」は当然あります。
「認識」とは「感知」できる内的存在についてのみの機能であるから、「感知」できない「外的存在」についてはそもそも「認識」できません。
故に、「認識」は原理的に不完全性を抱えています。
「認識」は原理的に決して完全な「認識」に至ることはないのです。
「認識」は「内的存在」を作り出すことしかできず、私たちは決して「内的存在」の外から出ることはできません。
これが「認識」というシステムのもう一つの根源的な欠陥です。
私たちの「認識」は常に不完全なのです。
「認識」とは「主体」に依存したシステムであることから、「主体」のもつ不確定性と不完全性を免れることは決してできません。
認識不確定性原理と認識不完全性原理から、原理的に私たちは他者と確定的で完全なる「認識」を共有する基盤を構築することは不可能であるということが言えます。