「認識について3」の続きです。
前回は「認識」というシステムについての話で、「認識」は「感知」と「識別」という2つの機能によって構成されているということを確認しました。
今回は、「主体」について考えてたいですが、まずは前回の補足からいきます。
前回の最後は、私たちは「認識」に生み出された「内的世界」の中で生きているというところで終わりました。
1. 内的世界
突然出てきた「内的世界」という言葉について説明します。
私たちは「認識」というシステムを通して「内的存在」を生み出します。
「内的存在」とは、「私」の中での「認識」の共通基盤となるものです。
突き詰めると、「認識」の共通基盤は「内的原存在」となります。
そして、新たに出てきた「内的世界」とは、「内的存在」によって構築された、「私」自身が「認識」して、生きている世界のことを言います。
私たちは「内的世界」の中で生き、考え、そこから出ることはできません。
さて、主観、客観とは何でしょうか?
もしかしたら、我々人間は事物を客観視することができるから、「内的存在」の外に出ることができると考える方もいるかもしれません。
しかし、それは誤りです。
主観も客観も「内的存在」の産物です。
客観すらも「内的存在」からの視点でしかありません。
客観とはいわば、「内的存在」の中で「外的存在」を想像して観ているに過ぎません。
主観から離れた視点(客観)を持つことができたと思っても、それは「内的存在」の範囲内での視点移動に過ぎないので、結局「内的存在」から抜け出ることはできません。
2. 主体
本日のテーマである「主体」は「内的存在」、または「内的存在」を生み出す「認識」の究極的な根源です。
「主体」とは「私」のことです。
「主体」とは私が「私」であるという根拠です。
「認識」はそもそも「主体=私」があるからこそ「認識」できるのです。
「主体=私」がないところは無です。「主体ー私」がなければ「認識」も「内的存在」も生まれません。
「主体」こそ、「内的存在」を存在たらしめるのです。
私の認識論においてこの「主体」は極めて重要な概念です。
繰り返しますが、「主体」は「認識」・「内的存在」・「主観・客観」の究極的な根源です。
「我思う、ゆえに我あり」とは有名なデカルトの命題ですが、これは「私」にとってのみ有効な命題と言えるでしょう。
私が「私」であるという「主体」の覚知が皆同じであるという保証はどこにもありません。
「主体」が違えば、「私」であるという覚知も異なります。
故に、「主体」が完全に同一でない限り、確定的で完全なる「認識」の共通基盤を構築することは不可能です。