人生辛いこと、行き詰まることが連続すると、「もう駄目だ」と諦めて、嘆いてしまいたくなります。
1回や2回ならば、まだ耐えられますが、何回も続くと流石に限界がきてしまいます。
人生に失望する理由は人それぞれです。
一生懸命努力したのに報われなかった。周りから嵌められた。運がなかった。
取り返しのつかない過ちをしてしまった。今まで築いてきたものを台無しにしてしまった。
誰も理解してくれなかった。周りから評価されなかった。
自分の意志とは関係なく、病気で苦しめられている。
騙されて、何もかも失ってしまった。
苦しい状況にあるのに誰も助けてくれなかった。
他にも色々な理由があると思います。
大抵の人は、そう簡単に人生に諦めたり、うなだれたりしません。
人間は大なり小なり過ちを犯したり、人から苦しめられたりします。
しかし、それでも耐えることができます。
人は自分の困難に耐えられるキャパシティが限界を超えた時に、人生に失望する・絶望する状態に陥ります。
自分を苦しめている困難が試練の限度を超えて、自分の存在そのものを脅かすほど深刻な危機として迫るとき、それは絶望になります。
この危機に陥るとき、私たちは目の前が真っ暗になり、希望が持てなくなります。
何も考えられなくなり、将来ついても考えられなくなります。
過去に味わったことがないほどの絶望に苛まれ、生きる意味や価値すらも感じられなくなります。
この様な絶望に立たされた時、どうすれば立ち直ることが出来るのでしょうか?
非常に難しい問題で、安易なことは言えませんが、1つの視点ならお話しできます。
それが、「俯瞰」です。
極限の絶望と暗闇に立たされた時、私たちは自分の視点からではもはや希望を見出すことはできません。
もはや自分の中には光はないからです。
自分の視点で見る限り、どうあがいても困難に打ち勝てない、状況を克服できないと感じますし、それがその人にとっての事実であると思います。
しかし、大切なのはその絶望があなたの人生にとっての全てではないということです。
ある「出来事」が起きたとして、その「出来事」の意味はその人の中で大きかったり小さかったりします。
「出来事」は人生に影響を与え、喜びであったり、悲しみをもたらします。
しかし、それだけなのです。嫌な言い方ですが、「出来事」自体には意味も価値もありません。
「出来事」を受け取るその人次第で意味や価値が違ってきます。
「出来事」が力をもって私たちに影響を及ぼすのではなく、「出来事」を受け取る私たち自身がその影響を作り出していくのです。
「出来事」は出来事として、人生にとっての1ピースに過ぎないのです。
あくまで人生を構築する一部分に過ぎません。
例え、ある「出来事」が起きて、それを無関心に通り過ぎたとしてもあなたの人生は続くのです(ある意味それは無情にも)。
時間は進み、それを止めることはできません。
今、その「出来事」があなたを苦しめるとしても、それが人生の全てではないのです。
「出来事」自体が、人生を決めるのではなく、あなたが人生を決めるのです。
自分を人生の主役と考え、自分の視点で見る限り、私たちはいつも目の前にある現在の出来事が自分の全てであるかのように映ります。
しかし、自分を俯瞰し、人生という大きな視点で見る時、別の事柄が見えてきます。
地上にいる時は、首を思いっきり曲げて見上げないと最上階が見えない大きなビルも、スカイツリーから見下ろせば、米粒のようなものに見えます。
それと同じで、目の前に立ちはだかる大きな「出来事」も、俯瞰して見れば人生を構成する1ピースになります。
その「出来事」が人生の全てではないのです。
今まで築いてきたものが全て失われて絶望していても、それで人生が終わりという訳ではありません。自分自身が人生を終わらせない限り(もしくは誰かの手によって終わらせられない限り)、無情にも時は流れ、生きていきます。
そして、生きる限りまた色々な「出来事」が巡ってきます。
その巡ってくる「出来事」をどう受け取るのか、それはあなた次第です。
「俯瞰」についてのお話でした。