前回までの記事で、日本人の精神的・文化的基層が縄文文化と、その文化・風土の中で培われた原始神道を源流としていることを大まかに見ていきました。

今回からの記事では、原始神道と縄文文化との関わりを更に掘り下げ、縄文人の宗教的感性、カミ観念について考察していきたいと思います。

また、原始神道は、惟神の道(かんながらのみち=神と共にあるという意味)とも呼ばれています。惟神の道が縄文人にとって、どんな意味を持っていたのかも考察していきたと思います。

その為に、まず縄文文化とそこに息づいていた原始神道とはどの様なものであったのかということから見ていきます。

4.縄文時代の霊性

前回の記事の中で既に触れましたが、縄文時代の文化は考古学的研究の積み重ねにより、私たちが想像していた以上に豊かで高度なものであったことが明らかになってきました。縄文文化は、1万年以上という非常に長い期間に渡り持続・継続していきました。

この長い時間の中で、縄文人の生活様式は時代と共に変化し、また霊性、宗教性が発展していったのはある意味では当然のこととも言えます。縄文文化の中で培われていった原始神道を考える時、縄文時代の中でいかに霊性、宗教性が発展していったのかを見ることは大変重要なことです。

縄文草創期(1万6500年~1万2000年前)は、まだ気候は寒く大型の動物もいましたので、狩猟を中心にキャンプ生活をしていました。縄文時代の住居として竪穴式住居は有名ですが、竪穴式住居はまさにキャンプ小屋と言えるでしょう。

草創期の縄文人は竪穴式住居を拠点として、一定期間定住し、また別の拠点を求めて移動していまいした。そして、草創期において既に、縄文人たちの宗教性の芽生えを確認することができます。彼らの使っていた道具には、実用性を超えた「凝り」が確認できるからです。

つまり、道具に実用性以外の付加価値、メッセージ性を加えたのです。道具を単なる「物」として捉えるのではなく、「物」の奥に隠されている霊性を発見していったと考えられます。縄文人は道具としての「物」から霊的な「モノ」へと認識を深めていきました。自分たちが、この「モノ」の力から恩恵を受けて狩りをすることが出来ている。「モノ」によって生かされていることへの感謝、畏敬が「物」を「モノ」へ変えていったのだと思います。この霊性の発見こそが、モノ文化の始まりと言えるでしょう。

縄文文化と神道5縄文草創期の鏃

気候がだんだんと温暖になってくると、縄文人たちの生活様式も変わっていきました。縄文早期(1万2000年~7000年前)になると、縄文人たちは安定した定住生活を始めます。ムラの出現です。

そして、このムラは環状の集落でした。定住生活は、縄文人たちのネットワークを急速に広げていき、またネットワークの媒介であるコミュニケーションも発達していきました。それと同時に、モノ文化も更に発達していきます。土器や道具への「凝り」はますます高まっていきました。そして、「凝り」は広がりを見せ、道具だけに留まらず、自分たちの住んでいるムラ自体にも「凝り」が現れてきました。

定住するということは、特定の土地に骨を埋める、一生をその土地で暮らし、過ごすということです。つまり、ムラにおいて、自分たちの生と死が繰り返され、循環していくということが発生します。生と死の循環が自分たちが住んでいる同じ土地で起きるということは安定した定住生活だからこそ生まれてくる現象です。

彼らは、自分たちの生き死にと、ムラとの間に大いなる結びつきを感じ、土地への霊性を発見していきました。ムラという「物」が「モノ」になっていったのです。ムラの中心に、ムラ自体の霊性を現わす「凝り」が生まれてきました。即ち、居住の実用性を超えた、大型建造物です。縄文前期の三内丸山遺跡(青森県)にある六本柱建物跡が代表的です。

縄文文化と神道6三内丸山遺跡(青森県青森市)の六本柱建物跡(復元)

縄文中期(5500年~4500年前)以降になると、温暖化はピークに達し、縄文人の「モノ」への「凝り」も、最も激しく表現されるようになりました。霊性の爆発の時代といってもいいでしょう。

霊性の爆発が最も顕著に現れたのが縄文土器や土偶です。火焔土器や王冠土器、人間離れした形状の土偶が登場してきました。土器は元々、火による加熱によってアクの強いドングリ類をアク抜きし、食する為の道具でした。しかし、土器の腹の中から生み出される暖かい食べ物、それによって自分たちが命を繋ぎ、生かされているということへの畏敬。生きる糧・生きるエネルギーを土器が生み出すことへの神秘を感じた時、土器は「物」を超え、一つの命をもつ「モノ」になっていきました。縄文人は土器に秘められた霊性、凄まじいエネルギー、ほとばしる力を火焔土器(正確には何を表しているのか不明)のような形で表現したと考えられます。

縄文文化と神道7火焔土器

元々、土偶は女性(特に妊娠した女性)をかたどって作られたもので、生命への神秘、子宝への感謝を表現していました。しかし、縄文後期(4500年~3200年前)に入ると、人型をかたどっていた土偶が大きく変わってきます。ハート形土偶、ミミズク型土偶、遮光器土偶、山形土偶などが登場してきます。これらの土偶は、超自然的存在をかたどったものだとされています。つまり、縄文の人たちは霊性の化身、カミをかたどって土偶を作ったのです。また、この土偶は、縄文人たちが明確にカミを認識していたということの証拠でもあります。

縄文文化と神道8ハート形土偶

縄文人たちは、動物を霊的な存在であると捉えていました。特に、蛇に対して強い畏怖の感情を抱いていました。なぜ、縄文人たちは動物を霊的な存在、カミと捉えていたのでしょうか。

それは、狩猟の時代、生きるとは動物の命を食べるということであったらです。だからこそ、土器と同じ原理で(その起源は土器よりも古いが)、動物を人間に命を与える霊的存在として感謝し、畏れていたのです。また、蛇が特別な畏敬・畏怖の対象であったのは、様々な理由が挙げられますが、一つには蛇を山に見立てていたということがあります。蛇のウネウネする姿は、山の峰を想起させ、蛇のとぐろを巻く姿は山全体を表すものであると考えられていたようです。

記紀の世界観では、日本は葦原中国(あしはらのなかつくに)、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのなかつくに)であるとされるが、縄文時代の日本は火山列島でした。つまり、火山の国、火の国であったのです。縄文人は山を偉大な霊的存在、自然のそのものの代表、カミとして非常に畏れていました。

山といっても今のような穏やかな山とは違います。縄文人が畏れた山とは荒ぶる火山のことです。火を噴きあげる猛威の姿そのものが、恐怖、畏怖の対象でした。正に、火山とは荒ぶる神そのものだったのです。縄文人にとって、「山は神であった。山が清浄であるからではなく、山が神秘不可測な〈憤怒〉そのものであったからである。山は、まず火の神であることにおいて、神なのであった」のです。[1]

縄文文化と神道9日本のプレートおよび火山帯

[1] 山折哲雄編『日本人の宗教とは何か』太陽出版、2008年、P, 21-22

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