私たちは常識というルールの中で生活しています。常識はその社会のメンバーが当然のように受け入れている知識や分別のことです。

常識はそれを当たり前のように受け入れられているからこそ、疑ってみることを誰もしません。

社会は常識という名の共通の認識やルールを土台として回っていると言っていいでしょう。しかし、だからといって常識が全て正しいとは言えません。

「そんなの常識でしょ?」という言葉がありますが、ではその常識が真実なのでしょうか。多くの人の共通認識であるだけで、常識という存在には何ら真実や真理が保証されている訳ではありません。

しかし、そんな常識が時として目に見えない檻となって、新しい発想や真実・真理の探究を妨げることもあります。この議論においてよく誤解されるのは常識と倫理の混同です。「常識から外れるから許されない」と「倫理から外れるから許されない」では言っている事柄の次元が違います。

倫理とは哲学的に精密な論理を重ねられて形成された一定の限界性や踏み込んではならない領域のことです。倫理には厳格性と正確性があります。ですから、倫理を踏み越えるということは許されざることです。決してあってはならない事柄です。しかし、常識とは単なる多くの人における共通認識や知識に過ぎず、そこには厳格性も正確性も普遍性もありません。ですから、常識に挑戦したり、常識に疑問を投げかけることは何の問題もないことです。

アルベルト・アインシュタインの名言に「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」という言葉があります。

この言葉は常識の全てを否定している訳ではありません。しかし、私たちに気付きを与えてくれます。常識とはそれが何かの真理なのではなく、多くの人に信じられている物事の一つの見方に過ぎないということを言い表しているのです。

常識も偏見も物事の一つの側面、見方の一つという点では同じことです。常識も偏見も真実性はありませんし、普遍性もありません。だからこそ、アインシュタインは物理学者として、常識=偏見に挑戦することが真理を探究することなのだと考えたのだと思います。

しかし、常識は自分一人の力では変えられません。ならば出来ることは自分を変えることです。オープンマインドを持つことが必要です。物事には様々な側面と見方があります。常識を当たり前のものであり、唯一絶対的な価値観と考えるのではなく、常識が間違っているのではないかという考え方をもつことが大切です。常識を疑い、常識に挑戦する。その挑戦が世界を変えていくことに繋がるかもしれません。

その為にはまず、自分の考え方、見方、受け止め方、心の姿勢を変えていくことが必要です。