コミュニケーションには2種類ある。

1つは生物界のコミュニケーションである。生物界のコミュニケーションはほぼノンヴァーヴァルコミュニケーションである。

明確な言語を使っているのは霊長類だけだと考えられ。特に目を使ったコミュニケーションは霊長類の特徴の一つである。

しかし、いかなる生物であろうと一個体でコミュニケーションできる存在はいない。

もう1つは意外に思われるかも知れないが、人間と自然とのコミュニケーションである。人間が自然を観察し、自然界の法則を見つけること、自然と共に生きること、時に自然をコントロールしようとすることである。呪術などは自然とコントロールしようとする代表的な例である。また、圧倒的な自然の力の前にただ身を任せることもある種のコミュニケーションである。それは自然の猛威を人間が受け取るというコミュニケーションである。

人間の記憶にも2つの種類がある。それは体内記憶と体外記憶である。体内記憶は遺伝子や脳に記憶されるものであり、記憶媒体はかなり限定されている。体外記憶は本、DVDやUSB、インターネットクラウドなど、記憶媒体は限定されておらず多種多様であり、圧倒的に多量の情報を書き込める。

そして、人間の記憶の「記憶」の部分を「文化」に置き換えることができるだろう。つまり、人間の文化には2種類あるということである。人類は誕生してからとても長い間、口承文化(体内記憶)であった。しかし、人類が絵や文字を覚えると体外文化(体外記憶)というものを獲得した。体外文化というものは情報所有者、口承が不可能な状態に陥っても、記憶(情報)は消滅しないものである。そしてそれは時に時間(時代)や空間(言語・国)を越える。現代になって電子化か進み、情報の複製が過去の何兆倍にも膨れ上がり、急速に情報の扱い方が変わりつつある。つまり、記憶のされ方と文化は時代とともに変化しているということである。情報の記憶し方が文化の変化といえるだろう。むしろ、体外記憶こそが人間独自の文化と言ってもいいのではないか。

「生命の本質が遺伝子を介して伝播する情報だとするなら社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし都市は巨大な外部記憶装置」[1] なのではないかということである。つまり、リチャード・ドーキンス氏がいう「個体が作り上げたものもまたその個体同様に遺伝子の表現形」である、ビーバーのダムやクモの巣、サンゴ虫の作り出す珊瑚礁と同じように人間が作り上げた文化・文明もまた遺伝子の表現形であるかもしれないということである。

[1]押井守『INNOCENCE』徳間書店、2004年、p,80‐81