前回の「認識について1」の続きです。

「認識」についての自論を展開いたします。

私たちが普段生活する時にはほとんど意識することはありませんが、私たちは自分が今見ている風景、感じている経験は、他の誰かときっと共有できると当然のように考えているはずです。

私とあなたが、同じ時間、同じところに出かけ、同じ風景を見たならば、二人はほぼ同じ光景を見れたと普通は考えます。

他にも、同じお店に入り、同じ食事を注文して、食べたならば、その味を共有できると考えています。

私たちは自分が感じている感覚は同じ体験をすれば、他の人も同じ感覚を味わうと思っていますし、同じものを見れば、同じ「認識」をするはずだと考えています。

なぜなら熱いものを触れば皆熱いと感じますし、綺麗な風景を見れば皆綺麗だと感じるからです。

赤は赤色に見えるし、青は青色に見える。

これらは自明のことであり、普段私たちがいちいち確認する必要がない前提のようなものです。

しかし、それは本当にそうなのでしょうか?自明のこことしている前提は果たして絶対と言えるものなのでしょうか?

AさんとBさんがあるバラを見て、二人とも「このバラは綺麗だな」と思ったとしても、何が綺麗と感じたか、どこの部分が綺麗と感じたかは違うかもしれません。

Aさんはバラの色合いが綺麗だと思いましたが、Bさんはバラの花びらの形が綺麗だと感じたかもしれません。

同じ綺麗だという「認識」であっても、何をもって綺麗だとする基準はそれぞれ異なります。

あるいは、色弱の方とそうでない方が同じ風景を見たとしても、受け取る印象は異なります。

色にしてもそうです。私とあなたが同じ赤色を見て、それは二人とも同じ赤と認識しているとは限りません。

つまり、「認識」は一人ひとり異なるという事実があります。

私たちは何気なく、自分の認識は他人とも同じであり、「認識」は互いに共有できると思い込んでいます。

確かに、私たちは日常生活の中で自分以外の他者とコミュニケーションを取ることによって意思疎通を図ることが出来ます。

それはつまり、共通の「認識」の基盤があることに他ならないと言えるように考えられます。

しかし、では何故私たちはしばしば誤解や事実誤認をしてしまうのでしょうか?

それは、「認識」を日常生活という巨視的な視点から見るならば、「認識」の相違は誤差と言えるほど小さなものになるでしょう。

しかし、「認識」を微視的な視点で見るならば、そこにある相違は「認識」というシステムを揺るがしかねないほどの根本的な欠陥として浮かび上がってきます。

「認識」についてはまた詳細に考察していきますが、ここで自論の結論を先に述べておきます。

「認識」というシステムには克服しがたい、原理的に導かれる根源的な欠陥があるということ。また、原理的に他者と確定的で完全なる「認識」を共有する基盤を構築することは不可能であるということです。

次回は、「認識」のシステムについて考察していきます。

広告