「認識について2」の続きです。

前回の話の中で、結論として「認識」には原理的に導かれる根源的な欠陥があること、他者と確定的で完全な「認識」共有する基盤を構築することは不可能であると述べました。

今回は、なぜそのような結論に至ったのかを説明するために、まず「認識」のシステムについてお話いたします。

私たちは認識という言葉を聞くと、情報を受け止め、それをどのように脳で処理するかという過程だと考えます。

私がこれから述べる「認識」とはそういった脳の働きも含みますが、より根源的な意味を持っています。

「認識」は大きく分けて「感知」と「識別」の2つの機能に分かれます。

逆に言えば、「認識」は「感知」と「識別」の2つの機能によって成立しています。

1. 感知

「感知」とは、端的に言って刺激(=情報)を受け止める機能、刺激のあるorないを検知する機能です。

「感知」は刺激を受け止めることから、受動的機能と言えるでしょう。

私たちは刺激(=情報)を「感知」することによって初めて、何かが存在すると知ることができます。

私たちは「感知」することによって、自分にとって刺激(=情報)を存在させることができるのです。

逆に言うならば、「私」にとって感知できないものは、刺激(=情報)の元となるものがあったとしても、ない・存在しないということと同じです。

例えば、私たち人間が光として感知できる範囲は、電磁波の波長のうち、下界は360-400nm、上界は760-830nmであると言われています。それ以上短い波長でも、長い波長でも私たち人間は光として捉えることは不可能です。

私たちが捉えることが出来る範囲の電磁波を可視光線といいます。可視光線よりも短い波長は紫外線、長い波長は赤外線です。

この例からも分かる通り、私たちが「感知」できるものは、外界のごく一部、断片的なものに過ぎません。

私は、「感知」から生まれる存在を、「内的存在」と呼ぶことにします。

そして、「感知」可能なもの・不可能なものを含んだ全ての事物を「外的存在」と呼びます。

「外的存在」は「内的存在」とは別に、「私」が「感知」しようとしまいと厳然と存在している事物のことです。

「外的存在」と「内的存在」は対立概念ではありません。

「感知」から生まれる存在を「内的存在」、「私」の「感知」によらず独立して存在している事物を「外的存在」とします。

「感知」についての話をまとめます。

「感知」できないものは、たとえ刺激(=情報)の元となる「外的存在」があったとしても、「内的」には存在しないということになります。

「私」とって「感知」できないものは存在しないのです。

 2. 識別

「識別」とは、「感知」した刺激(=情報)を区別する機能です。刺激のあるorないだけでなく、刺激(=情報)の種類を区別する機能です。

「識別」は刺激(=情報)を区別することから、能動的機能と言えるでしょう。

刺激(=情報)を区別するということは、違いを決めるということです。

そして、違いを決められるということは、そこに基準があるということです。

違いは基準がなければ生まれてきません。

よって、「識別」は基準に基づいて刺激(=情報)を区別します。

ではこの、基準とは一体何でしょうか?

私は、この基準を「内的原存在」と呼びます。

「内的原存在」は「内的存在」の中にある具体的・抽象的概念の像とも言うべきものです。

例えば、バラ、パンジー、チューリップはそれぞれ別種の花です。それぞれ形も違います。しかし、私たちはこれらを見て「花」だと「識別」することができます。

それぞれ色も形も違う花ですが、なぜ私たちはこれら3つのものを見てどれも同じく「花」だと「識別」することができるのでしょうか?

それは、私たちの「内的存在」の中に「花」についての「内的原存在」があるからです。

私たちがバラやパンジー、チューリップを見て、これは「花」であると捉えることができるのは、「花」という「内的原存在」が基準となって「識別」しているからです。

「内的原存在」は「内的存在」の「原(もと)」なのです。

3. 認識

「認識」とは以上の「感知」・「識別」という機能から構成されているシステムです。

話は逸れますが、冒頭で、「認識」はいわゆる認識よりもより根源的であると説明したのは、このシステムこそ原初的知性であると考えるからです。

生命についての定義は様々あり、また未だ決定的なものはありません。

私は生命と非生命の境には原初的知性のある・なしが関わっているのではないかと思います。

刺激(=情報)を「感知」し、「識別」する。これは、何も人間や動物だけの能力ではありません。

微生物も同じように「認識」というシステムを用いて、刺激に対して有意な反応を取っています。

話を元に戻します。

端的に言って、私たちは「内的存在」の中で生きています。

正確に言うならば、「内的存在」の集合よって構成された「内的世界」(=「私」の「認識」する世界)に私たちは生きています。

私たちの人生で経験することは全て「内的存在」の範疇の中での出来事に過ぎません。

そして、私たちは決して「内的存在」の外に出ることはできません。

なぜなら、「内的存在」は「認識(に含まれる感知)」から生まれてくるものであり、私たちは「認識」というシステムを通してでしか、「外的存在」を知ることができないからです。

今回はここまでです。

次回は、「主体」について述べます。