2.縄文人の生活-原始神道

原始神道の起源を探ってみると、その源流は縄文時代にまで遡ることができます。

縄文時代に誕生し、発展していった固有の信仰体系は原始神道・古神道・縄文神道・神祇信仰と呼ばれ、神社神道とは区別されて考えられています。そもそも、当然ながら縄文時代には「神道」なる言葉は存在していませんでした。

神道とは中国の「易経」や「晋書(しんじょ)」に出てくる言葉ですが、日本で固有の意味をもって用いられたのは、外来宗教である仏教や道教・儒教と日本古来の信仰を区別することがきっかけであったと考えられます。

日本人が区別する意味で「神道」という言葉を用いた最古の記録は、720年に編纂された『日本書紀』の第二十一巻「用明天皇紀」、また第二十五巻「孝徳天皇紀」に記されています。

では、外来宗教と区別する必要になった日本古来の信仰とは一体どの様なものだったのでしょうか。そのためには、当時の縄文人の生活について、少し考えなければなりません。

私たちがイメージする縄文時代とはどの様なものでしょうか。多くの人は、狩猟採集をしていた原始的な生活であったと考えるのではないでしょうか。しかし、このイメージは大きな誤りであるということが、考古学的研究の積み重ねで明らかになってきました。

実際の縄文人の生活は、私たちが想像している以上に高度な文化を持っていました。少なくとも、今から6000年前の縄文前期には稲作が行われていたことが、岡山県の遺跡から熱帯ジャポニカ米が発見されたことから分かりました。

また現在は、今まで水田稲作は弥生時代から始まったとされていましたが、水田稲作を持ち込んだのは縄文人自身であったことが分かってきました。朝鮮半島南部で水田稲作を学んだ縄文人が、温帯ジャポニカ米と水田技術を持ち帰り、今から3000年以上前に日本で水田稲作を広めたとされています。

しかし、同時に縄文人たちは自分たちの生活形態である縄文文化の持続性・継続性の重要性も気付いていたと考えられます。前回の記事に書いた通り、縄文文化は農耕稲作ではなく、狩猟採集を中心とした生活形態の中から定住性と安定性を見出すという、独自の文化を築いていきました。縄文文化が1万年以上に渡って持続していったのは世界史的にも類のないことです。

また、世界最古の土器は今から1万6500年前の縄文土器(青森県大平山本Ⅰ遺跡から発掘)であるとされています。その他にも、青森県の三内丸山遺跡から分かるように、私たちの想像以上に高度な文化の中で縄文人は生活していました。

縄文人たちは決して農耕文化に無知だった訳ではありません。農耕文化は既に知っており、それを実行に移す技術的な能力も持ってはいたが、敢えて主流として縄文文化を維持し、農耕文化に移行しなかった・選択しなかったという可能性も考えられます。

農耕文化には劇的な生産性の向上と、堅固な安定性という魅力さがあります。しかし、その前提としてまず、自然を切り開くことが必要となってきます。自然を切り崩し、農耕に適した土地として開墾することによって始めることができます。それが良い・悪いということではなく、あくまで農耕文化は本質的に自然破壊が前提となっているということです。

縄文人たちは、技術として農耕を既に知っていましたが、基本としては自分たちの狩猟採集を中心とした定住性・安定性のある生活を続けていきました。

狩猟採集といっても、原始時代のそれとは異なります。縄文人たちは高度な技術を生かした漁を編み出し、単に木の実を採集するだけでなく、採った実を植えて植林していたことが考古学的研究により明らかになってきました。

また、世界最初期の土器の発明により、いち早く「煮炊き」を獲得しました。「煮炊き」の発見は人類史上における調理革命と呼ばれています。縄文人は「煮炊き」を獲得することで、アク抜き・毒抜きを可能とし、今まで生では食べることが出来なかったものも食べることを可能にしていったのです。「煮炊き」の発見により、食事文化は劇的な変化を遂げました。

縄文人があえて狩猟採集を続けていった理由としては、それが文化の持続性において最も適したものであると感じていたからではないかと考えます。縄文文化の基本は人が自然と共生するということです。人は自然からの恵みを受け生活していき、人もまた自然に受けた恵みを返していく。この循環性により、確固とした持続性が生まれてくのであると、縄文人は四季のある生活を通して肌で感じていたのではないかと思います。

農耕文化は劇的な生産性と文明の向上をもたらしますが、常に自然破壊というリスクを内包しています。もし自然破壊が自然の回復力を超えてしまった場合、その時農耕文化も衰退していく危険性があります。なぜなら、農耕文化もまた自然の恵みを享受することを前提として成り立っていることには変わりがないからです。

縄文文化には劇的な生産性も文明の向上もありませんが、持続性・継続性においては抜群の安定性があります。それは、一方的に自然の恵みを享受するだけでなく、受けた恵みを自然に還元しながら共生していくという生活形態がなせるものです。この生活形態こそが、縄文文化を1万年以上に渡って持続させていった原動力と考えられます。

農耕文化はその本質から生産性の向上を追求し、自然を利用するため、自然破壊には限度がありません。縄文文化も確かに定住のために自然を開墾し、利用しますが、必要最小限度に留めます。そして、自然を利用し、受けた恵みの分は自然に還元します。この循環型社会が縄文文化の特徴です。

この様な循環型社会、自然と共生し、生活していく生き方こそ原始神道の基本原理です。逆に言うならば、自然と共に生きていく、循環性、高い持続性を持つ縄文文化だからこそ、原始神道が生まれ、育まれいったのだと思います。

最近の考古学研究の成果によって、縄文人の高度な文化について明らかになってきましたが、1万年以上前に及ぶ原日本人・縄文人の文化のルーツは、照葉樹林文化にあります。

日本人の最も深い部分には、照葉樹林文化が刻み込まれています。そして、この照葉樹林文化こそ、原始神道が生まれてきた源なのです。照葉樹林文化とは、西はネパール、東は日本列島にまで広がっている広大な地域に分布する文化圏のことです。

照葉樹林文化には、ある特徴的な文化要素が見いだせます。それは、物質的要素から見れば水さらしのアク抜き技法、絹の技術、稲の栽培、もち食、大豆の発酵食品の利用(味噌、納豆)、サトイモ食品、コンニャク食品、漆器の製作、鵜飼、家屋の構造という要素が挙げられます。

また、精神的要素から見れば、カミ(精霊)信仰、他界という観念があります。カミ信仰とは、巨石や巨木、また山などの自然に霊性を感じることです。他界の観念とは、人間が生きている世界と、神が生きている別の世界があるという観念です。また、禁足地の概念も、他界の観念に属します。これらの一定の要素を共有しているのが、照葉樹林文化です。日本人の精神の根底には、この照葉樹林文化の要素が必ず含まれています。

今回はここまでです。続きはまた次回にお話いたします。

縄文文化と神道2