私は長年、キリスト者として熱心かつ忠実に教会に仕え、奉仕してきました。
一信徒である以上に、神学を長年学び、その為の修練も積み重ねてきました。そして、多くの現場で働き、様々な信徒の方と関わってきました、
私はいわゆるクリスチャンホームで育ったわけでも、パスターズキッズ(牧師の子ども)であったわけでもありません。ごく一般的な家庭に生まれ育ちました。
しかし、私にとってキリスト者であること、またキリスト教と関わることは私の人生の大半の部分を占めるものであり、私の人生において切り離すことが出来ないもとのなっています。それが良い意味であっても、悪い意味であっても。
私は、一キリスト者としての信仰生活を通して、また神学を修め、現場に関わることを通して、日本のキリスト教の歪み・矛盾・人間関係の醜悪さを目の当たりにしてきました。
私は、その吐き気を催すような世界の中で何とか我慢して生きてきました。それも1、2年の話しではありません。長年に渡ってです。
しかし、様々な出来事を通して、このままこの世界に生き続けたならばたとえ肉体的には生きながらえたとしても、私は人間性の死を迎え、人間としての尊厳を奪われると確信しました。また、自分がそうなってしまうのみならず、私が誰かの尊厳を奪う側になってしまうのではないかという恐ろしさを感じました。
故に、私はこのキリスト教という世界から決別することにしました。
具体性に欠ける話しですが、詳しいことについてはこれから回数を重ねてゆっくりと語っていきたいと思います。
日本の多くの人は、キリスト教の外面的な美しさしか知りません。しかし、私はキリスト教の内にいた者だから分かるのですが、日本のキリスト教は思想的にも体制的にも構造的にも、また宗教的な質においても腐り切っています。
この日本のキリスト教の現状は、治療してどうこうなる類のものではなく、根から蝕まれて手の施しようのない末期の状態です。ある意味、腐っていることこそが日本のキリスト教の本質と言えるでしょう。
これから『超越論的キリスト教批判』を通して、日本のキリスト教の問題点のみならず、キリスト教自体が抱える根本的な矛盾なども指摘していきたいと思います。