超越論的キリスト教批判題して投稿し始めましたが、「超越論的」にはきちんとした意味があります。

超越論とは何かを超えて、「上から」の立場で語るものではありません。形而上学とは異なります。超越論とはむしろ「下から」語ることを指します。現実そのもの、「事象そのもの」から語ることが超越論と言います。

超越論とは現象学の言葉です。

私は現象学から影響を受け、この発想を与えられました。

私たちは一般化された定式、理念化され確立したたものこそ物事の本質を指し示すものだと考えてしまいます。そして、私たちはその一般化されたもの、理念化されたものを何の疑いもなく、それが当然のものであり、自明のものであるとして受け入れてしまいます。または、受け入れないまでも、Aということに関して一般化・理念化されたものはAの本質について語っていると理解してしまいます。

この私たちの物事の受け止め方を自然的態度と呼びます。

例えば、キリスト教においてキリスト論、三位一体論が教義であると教えられた(知った)ならば、自然的態度としては、「ああキリスト教とはキリスト論や三位一体論がその本質なのだな」と受け止め=理解します。

そして、自然的態度のまま議論するとなると、キリスト論や三位一体論を語ることでキリスト教の本質を語ることが出来ると思ってしまいます。

また、もう一つの自然的態度としては、キリスト論や三位一体論を疑いなく、当然のものとして受け入れてしまいます=信じるということ。「キリストの復活って本当のことなのよ」

その場合の自然的態度の議論としたは、受け入れた枠内=信仰の枠内で「あれをどう解釈すべきか」という話なります。受け入れた枠は決してはみ出ることも、壊すこともありません。

しかし、超越論の立場としては自然的態度を批判します。

超越論の立場は、自然的態度からの視点が果たして本当に物事の本質を捉えているのか?いやもっと言うならば「現実」をしっかり見ているのか?という疑問を投げかけることから始まります。

一般化・理念化されたもの(「上から語ること」)は一見すると物事の本質を指し示しているように思えますが、実は「現実」を覆い隠しているのです。むしろ、一般化・理念化するということは「現実」=「事象そのもの」を覆い隠すことによって成り立つものです。

つまり、一般化・理念化されたものは「現実」を指し示してはいないのです。

超越論とは「下から語ること」であり、「現実」から語るという立場です。

私たちは自然的態度のままでは思い出すことが出来ませんが、実は一般化・理念化されたものは最初からそれ自体が出来上がっていたものではないのです。一般化・理念化されたものは、すべからく私たちが「現実」=「事象そのもの」を基として「構成」したものに過ぎないのです。逆説的ですが、「現実」=「事象そのもの」がなければ一般化・理念化は起こりえないのです。

一般化・理念化されたものの「前」に・「先」に・「メタ的」に「現実」があることを超越と言います。

一般化・理念化されたものは「現実」から「構成」されたものではありますが、しかし「構成」の過程で「現実」がベールに覆い隠されてしまいます。「現実」が忘れ去られてしまうのです。なぜなら一般化・理念化されたものは理想化されており、「現実」から解き放たれることによって「構成」されるからです。

超越論は徹底的に「現実」=「事象そのもの」に迫る考え方です。

そのためには一旦一般化・理念化されたものはを受け入れようとする自然的態度を中断し、「現実」に還元・引き戻すことが必要です。

一般化・理念化されたものから「現実」に還ることが超越するということです。「上から」のものである一般化・理念化されたものを超越することで「下」にある「現実」に戻ることが出来るのです。

超越論的キリスト教批判においては、一般化・理念化された教義や教えをキリスト教の土俵に立って批判するのではなく、まずもって信仰生活を送っている信徒の「現実」に迫ることによって、そこからキリスト教という「事象そのもの」に出会い、批判することが目的です。