キリスト者=クリスチャンと聞くと一般の人はどの様なイメージを持つでしょうか?
私が接してきた多くの人は、クリスチャンと聞くと真面目で、優しくて、清らかな心の持ち主であると考えるようです。また、信心深くて、聖書をよく読み、礼拝にも熱心に出席する。そういうイメージが強いみたいです。
しかし、私から言わせれば、これらのイメージは勝手な思い込みであり、いわばレッテル張りと同じです。
クリスチャンとはこうであるという典型イメージを押し付けられることは、私に限らず全てのキリスト者にとって不快なものです。
特に、私は一般的なキリスト者と全く異なる価値観を持っています。いわば超越論的キリスト者ともいえる存在です。
また、クリスチャンに対する典型イメージは、現実のクリスチャンの実像と全くかけ離れたものといえるでしょう。
しかし、多くの方によってイメージされているクリスチャンの姿はある種の一般化・理念化されたクリスチャン像ということができます。
より一般化・理念化したキリスト者像を述べるなら、「キリスト者とは主(キリスト)を信じ、主に従う者であり、主が生活の中心になっている生き方をしている者である。また、その生き方や価値観の基盤は主への愛と隣人愛であり、誠実さが核となっている。聖書の教えに忠実で、礼拝にも毎週欠かさず出席する」と纏められるでしょう。
これが一般化・理念化されたキリスト者像です。
しかし、既に述べた通り、日本のキリスト者の「現実」は一般化・理念化された像とは全くかけ離れた姿です。
超越論的キリスト教批判の立場からキリスト者の「現実」=「事象そのもの」へと迫ると、以下の事実が浮かび上がってきます。
日本のキリスト者、特に代々続くクリスチャンホームで育った人々やパスターズキッズ(牧師の子どもたち)等の多くは、世間知らずで、日本の社会においての常識を知っていません。
本人たちは常識を持っているつもりでも、それは狭いキリスト教世界にしか通用しない独特のルールであり、世間一般の人々からすれば理解しがたい非常に奇異なものとして目に映るでしょう。しかし、彼らはそれを自覚することが出来ないのです。
それは当然であり、彼らは生まれてこの方キリスト教世界から出たことがないからです。
また、そんな彼らが真面目で、優しく、清らかな心を持っているかというと、全く「現実」と異なります。
彼らは、基本的に幼いころから他人(教会に信徒)からもてはやされ優しくされて育っていきます。しかし、教会の信徒は本当の意味で他人といえるのでしょうか?教会の信徒が彼らに対して優しく接するのは、彼らが牧師先生の子どもだからであり、偉い代議員や長老(教会の信徒のリーダー的な存在)のお子さんに過ぎないからです。
信徒の優しさは歪んだものであり、それを受けて育ったクリスチャンホームで育った子どもたちもまた歪んだ価値観を持ってしまいます。
一例として、クリスチャンホームの子どもたちは、自分が受ける優しさを、あたかも自分が優秀だから与えられるのだと勘違いし、歪んだ自尊心と自己顕示欲を持つようになります。自分が何か生まれながらにして選ばれた、特別な存在である、そう思って育っていきます。
故に若い時期に放蕩を尽くすことが多く見受けられます。しかも、性質が悪いことに、そんな我が子の放蕩を見ても、クリスチャンである親たちは子を叱ることもせずに放任しておきます。
私が出会ったほとんどのクリスチャンホームの子どもたちは信心深くもないし、聖書もまともに読まず、礼拝に興味を示しません。
尚且つ彼らは自分が特別な存在であると勘違いしているものですから、特に反省することもありません。むしろ、ノンクリスチャンや一般家庭で育ち洗礼を受けた人よりも自分の方が上の存在であるとすら思っています。
この価値観が歪んでいないはずがありません。
そしてこの価値観を持ったクリスチャンホームの子どもたちが牧師になり、また教会の重鎮になっていくのです。誰も彼らの価値観を批判することはありません。
彼らは、猜疑心が強く、心の底から誰かを信じるようなことはしません。名声は求めますが、自分を支えてくれる信徒たちを本心では見下しています。少なくとも格下と見ており、悪ければ自分の為の道具ぐらいにしか思っていません。
また、表面的な人間関係を重んじており、人間関係のパワーバランスには異様に敏感です。政治の世界と基本的に同じであり、相手が偉ければ本心ではどうも思っていなくても相手をおだてます。長い物には巻かれろの精神は骨の髄まで染みています。日本の教会の世界は歪んだ超保守主義であり、クリスチャン歴や代々のキリスト者一族の歴史から来るかなり厳しい年功序列制があります。しかし、この年功序列は儒教的な正しい意味ではなく、歪んだ人間関係を生み出すに過ぎません。意味もなくクリスチャン歴が長ければ重要視されるのです。
個別主義を重んじてきたキリスト教世界において日本のキリスト教はこの点、異様な進化を遂げています。
そんな彼らが教会において重要な地位を占め、指導してきた結果が今日の日本の教会の有様です。戦後から最も大きな歪みが生じてきました。
愛よりも自分の利得を重んじ、信用を得るために見せかけの優しさ・偽善を大切にし、世間体は人一倍気にする。他人の功績は自分のものであり、自分の失敗は他人に擦り付ける。お偉い方の不正は見ても、知らぬふりで押し通す。常に猜疑心をもって身を守り、格下の隙や失敗をいち早く見つけ出して見逃さない。欺瞞に満ちています。
これらの欺瞞が今日の日本のキリスト者の本質であり、キリスト者同士の人付き合いの基本です。
日本のキリスト者の全員がこうであるという訳ではありませんが、教会の上層部や中枢にいる多くのお偉いキリスト者にとっては上記の欺瞞が当然の常識として蔓延しています。
さて結論です。
「現実」のキリスト者は我々と同じかそれ以上に人間的欲望に忠実で、醜悪な生き方をしています。キリスト者であろうが、結局は一人の人間に過ぎないのです。信仰を持ったからといって人間的な弱さから解放される訳ではありません。信仰を持ったら弱さを克服して人格が変わるというキリスト者に対するイメージは一般化・理念化された像に過ぎません。「現実」は何も変わらないのです。人間は人間のままです。この事実は忘れてはいけません。
むしろ、キリスト者は人間的すぎるほど人間だからこそ、一般化・理念化されたキリスト者像と「現実」の姿の乖離が激しいものとなるのです。
以上のことが、超越論的キリスト教批判の立場から見たキリスト者の「現実」です。