私が今日の日本のキリスト教を「腐り切っている」と公言するには理由があります。

端的に述べるならば、今の日本のキリスト教は、私たちが生きている「現実」からかけ離れたものとなっており、また「現実」から目を逸らし、独りよがりな価値観と世界観を「構築」しているからです。

現在の日本のキリスト教は教えにおいても、組織においても、行動原理においても、私たちが生きている「現実」を無視して、独自の世界観を展開しています。

一キリスト者であり、長年教会において奉仕し、現場で働いてきた私にとって「現実」は無視できるものではありませんでした。しかし、教会の一般化・理念化された教え・組織・世界観と「現実」とが余りにも乖離しています。

この乖離こそが、私がキリスト教批判する理由です。

これからの話に必要なものなので、今一度、超越論について簡単に説明します。

「一般化・理念化されたもの」とは自分たちで作り上げていった物事(や理念)に対する正しいイメージ、と言い換えられるでしょう。いわば、「これこそがキリスト教の本質・真髄(となる教え)」であると思われているものです。

また、自分たちで作り上げないまでも、他者や外部によって作り上げられていった(勝手な)イメージも「一般化・理念化されたもの」に含まれます。いわば「キリスト教とはこうあるべきもの」と思われているものです。

「構成」とは、「現実」から「一般化・理念化されたもの」が作り上げられていくことを指しています。「構成」には特徴的な働きが2つあります。

1つは、合理化です。合理化は「現実」にある理屈を付け加えることにおいて自分たちにとって合理的なものとなるように作り変える働きです。

もう1つは、純化です。純化は合理化されたものから余分な要素を削ぎ落とすことで、純粋なものとして作り上げ、「一般化・理念化されたもの」とするの働きです。

まとめると「構成」とは「現実」を合理化し、純化することで「一般化・理念化されたもの」を作り上げるのです。

故に「一般化・理念化されたもの」は「現実」から出発していながら、結果的に「現実」を覆い隠し、「現実」から疎遠なものとなってしまうのです。

それが今の日本のキリスト教です。

「一般化・理念化されたもの」は「構成」されたものであるにもかかわらず、あたかも最初からあったものと思われ、それ自体が物事の本質を表しているように私たちに働きかけます。そして、私たちは「一般化・理念化されたもの」を自明のものとして無批判的に受け入れてしまいます。これが「自然的態度」です。

しかし、私はこの「自然的態度」こそが「現実」との歪みを生み出していく根源に思えてなりません。「現実」を無視し、目を逸らし、それでいて自己満足する。その根源こそが「自然的態度」なのです。

私はそれに反対します。

逆に私の取る超越論においては、「一般化・理念化されたもの」を「還元」することによって「現実」を直視しようとする立場にあります。

「還元」とはキリスト教にとって都合の悪いものも含めて直視し(=「純化」を打破すること)、キリスト教的な論理や世界観の矛盾点を「現実」と突き合わせることで指摘すること(=「合理化」を打破すること)によって、今私たちが生きている「現実」にキリスト教を引き戻すことです。「現実」からありのままに物事を語ること、それが超越論です。