キリスト教(特にプロテスタント)において、説教は礼拝において極めて重要な構成要素です。

宣教やキリスト教信仰の継承は説教を通してなされてきたと言っても過言ではありません。

教派によってやや捉え方は違いますが、説教というものを「一般化・理念化されたもの」として述べるならば、「説教は御言葉であり、聖書の解き明かし」といえるでしょう。基本的にキリスト者は説教を聴くことで信仰が育てられていきます。また説教を通して信徒は、主に従って生きるという信仰生活の意味を学んでいきます。

故に説教ではキリスト教の教えが語られます。それは隣人愛であったり、キリスト者としての在り方、信仰生活の仕方、主(キリスト)に従っていくこと、十字架の意味などです。また、説教においてはそもそもの隣人愛の根拠、信仰生活の根拠なども教えられます。

しかし、これらはあくまで「一般化・理念化されたもの」の説教の姿です。

「現実」は異なる姿を示しています。

「現実」の礼拝の説教においては、説教者(大抵は牧師)の不勉強から来る一貫性のない矛盾した内容であったり、あからさまに不自然な解釈による説教やどこかで聞いたこと・読んだことのある内容の説教が大半です。大抵この様な説教をする説教者(牧師)は新約聖書・旧約聖書の原典に当たらず、釈義書(聖書の解釈本)にしか目を通していません。また説教集などから内容を拝借して人もいます。原典に当たれないということは、ギリシャ語・ヘブライ語を知らないか、中途半端なレベルの語学力しか身に着けていないということです。原典に当たることが全てではありませんが、ギリシャ語・ヘブライ語を使いこなせない説教者(牧師)が多くいるということに絶句です。また、聖書を通読しないまま牧師になるというような事態が実際にあるということに愕然とします。

説教が御言葉=神の言葉であるならば、どうしてこのようないい加減な行為ができるでしょう?説教者(牧師)は自ら語る言葉の責任の重さを自覚しているのでしょうか?自覚していないからこそ、不勉強のまま、適当に済ませようという思いが生まれるのでしょう。

釈義書は釈義の参考にはなりますが、最終的には説教者(牧師)自身が聖書と向き合うことからしか説教が生まれてきません。そうでないものは、説教と呼ぶにふさわしくありません。しかし、「現実」の礼拝においては、そのようなものが説教としてまかり通っているのです。

むしろそれならまだ、ましな方です。酷いものとなれば、自分の人生観や思想について語ることを説教と称したり、政治思想を語り出したり、聖書と全く無関係な話を終始し続けるという説教者(牧師)も珍しくありません。

これが日本のキリスト教の礼拝の「現実」です。こんなことが許されていいのでしょうか。

説教が信徒の信仰を育て、信仰生活を教えるものであるものです。であるならば、いいかげんな思いでもって作られた説教は、信徒の信仰や信仰生活の在り方もいいかげんなものとして育てていきます。それどころか、特定の思想があたかもキリスト者としての正しい信仰であるとして植え付けられていきます。

それが何十年も積み重なった結果が、今日の日本のキリスト教の風土であり、世界観です。

日本のキリスト者は、礼拝に出席し、そのような説教を聴いて、自分が特定の思想を植え付けられているという自覚を持っているのでしょうか?無批判的に受け入れてはいないでしょうか?「自然的態度」を中断して、「何かおかしい」と気付きましょう。

「現実」の説教においては聖書について語られるよりも極左思想を広めることの場面のほうが多いですし、一方的な政治批判、偏った人権思想、特定の民族主義を押し付けられる機会が多々あります。

聖書にそんなことが一字であっても書いてあるでしょうか。

隣人愛や信仰生活の在り方、その根拠を語らずに、説教を特定の思想のプロパガンダの舞台にしています。

このような非常に偏った思想を権威ある礼拝の「説教」としてありがたく無批判に受け入れてしまったならば、それは洗脳されていることと何ら変わりません。またそういう説教を聴いて育ってしまったならば、それがキリスト教の考え方であり、常識であり、キリスト者の取るべき基本的な姿勢であると思い込んでしまいます。扇動としても使われます。

これらの事情を知らない人が読むと驚かれるかもしれませんが、日本においてキリスト教会ほど民主主義を断固として非難し、極左的思想に傾倒し、それを堅持する団体はありません。日本のキリスト教会は日本で最も危険な思想団体の一つと言っても過言ではありません。恐ろしいのは、信徒たち自身は自分たちがそのような組織に加担していることに全く無自覚なことです。

しかし、繰り返しますが、聖書はそのような思想や生き方については全く語っていません。今の日本の礼拝で語られている説教は聖書から全くかけ離れたもとなっているのが「現実」です。

以上のことから、超越論的キリスト教批判において説教を批判します。