前回、説教について批判しましたが、今回はさらにもう一歩踏み込んだ領域、説教は神の言葉であるのかということについて考えていきます。

そもそも人間が語る聖書についての解釈が、何故キリスト教会においては御言葉=神の言葉となるのでしょうか?

私は神学を学んでいた当初からその疑問を抱いていました。

人間の言葉が神の言葉となる。そんなことは論理的に破綻しているのではないか、そう直感していました。

しかし、教会において説教が神の言葉であるということは決して譲れない主張です。

そもそもですが、教会は御言葉を3種類あるとしています。第一にイエス・キリスト。不思議に思えるかもしれませんが、キリストは神の言葉(ロゴス)なのです。第二に聖書。第三に説教です。

説教が神の言葉であるという主張をキリスト教が譲れないのは、それが礼拝の中心であり、その前提抜きには礼拝が成立しないからです。もし、説教中に説教者(牧師)が「これは私の見解です」などといったならば説教の権威、礼拝の正当性が失われてしまうからです。人間の言葉を誰が信じ、誰が有り難がるでしょうか。人間の言葉が信仰を育むとなるならば、教会の存在意義が失われかねません。

説教や礼拝の正当性を確保するためには、まずもって説教が神の言葉であるという絶対的な権威が前提にならなければならないのです。

教会がその説教が神の言葉であるということに拘る理由については分かりました。

しかし、それにしても何故、人間の言葉が神の言葉になるのでしょうか?

いくら神学を修め、聖書の原典に当たり、聖書の言葉を解釈したとしても、それはどこまでいっても人間の言葉です。人間の聖書に対する解釈に過ぎません。解釈は解釈以上のものには本来成り得ないのです。

しかし、人間の語る説教が神の言葉として絶対的なものとして権威づけられている。その背後には「一般化・理念化されたもの」の働きがあります。

「一般化・理念化されたもの」として説教の説教が権威づけられる理屈(合理化)は以下の通りです。

「聖書自体が神の言葉であるならば、説教者は神の言葉を取り次ぐ者であり、説教者の口を通して神の言葉(聖書)が自ら神の言葉(説教)として出てくる」

つまり、説教者(牧師)は聖書から説教者までの通り道であるパイプに過ぎず、神の言葉である聖書が説教を語る説教者の言葉を神の言葉として自ら権威づけるのだという理屈です。

しかし、この理屈(合理化)には致命的な欠陥があります。

聖書が神の言葉であるということの根拠の保証が、キリスト教会が「構成」した(=作り上げた)理屈以外に何もないのです。

自分たちが作り上げた理屈の上に、さらに自分たちの都合のよい理屈を立てたのです。このような理屈は砂上の楼閣です。逆に言えば、大元の前提である「聖書は神の言葉である」という「一般化・理念化されたもの」が崩れたならば、即ち「説教は神の言葉である」という「一般化・理念化されたもの」も崩れ落ちるのです。

聖書が神の言葉であるということにも各教派によって解釈が異なります。聖書は神が自ら書いた言葉なのだと言う者も、神が霊感をもって著者に書かせたのだとする者も、あるいは書いたのは人間だとしも聖書が編纂された過程に神の意志があったのだとする者もいます。

しかし、それぞれの主張を鑑みても、文献学的・本文批評的・考古学的な事実として、聖書の各巻は人間が著し、正典成立(=聖書成立)の過程で人間が恣意的に編纂したという「現実」があります。

聖書を無前提・無批判に的に捉えるならば、聖書が神の言葉であるという根拠を保証するものはどこにもないのです。聖書が神の言葉であるという理屈(合理化)は、キリスト教会が自らの正典を絶対的もとして権威づけるために「構成」され、それが「一般化・理念化されたもの」なのです。

むしろ、「現実」を直視するならば、聖書の各巻の各著者はそれぞれの時代に、それぞれの思いや使命を抱いて、後に聖書として編纂されるものの一部を必死になって書き上げてきたという事実が浮かびかがってきます。彼らの生きた「現実」、著書たちの聖書に込められた生き様の方が「一般化・理念化されたもの」よりもよほどダイナミズムがあり、人間ドラマ、歴史を感じます。

むしろ、聖書を「一般化・理念化されたもの」とすることで、著者たちの生き様や正典を成立させていこうとする編纂者たちの努力を無視することになってしまいます。

聖書の正典成立の歴史は面白いのでまた別の機会に詳しく見ていきたいと思います。

以上のことから「聖書が神の言葉」であるというという理屈(合理化)は「現実」を直視することで打破され、「説教は神の言葉」であるという「一般化・理念化されたもの」はその根拠を失うのです。

つまり、説教や聖書を「現実」から見たならば、それらは神の言葉ではなく、人間の言葉であるという事実が現れてきます。

しかし、ただの人間の言葉というのは不当な評価でしょう。

特に聖書は人類史において極めて優れた思想と文学が集約されたものであると評価するべきでしょう。

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