私が日本のキリスト教について最も批判的なのは、教会が教えることと、教会が行っていることの著しい乖離についてです。

教会は「イエス・キリストは救い主であり、主を愛し、主に従って生きる」ことを教えています。主に従って生きるとは、主イエスが我々を愛したように、我々も互いに愛し合って生きるということです。つまり、神を愛し、隣人も愛する。それがキリストに従って生きる者の在り方であり、教会の教えるところです。上記が「一般化・理念化されたもの」であるキリスト教の教えでしょう。

しかし、教会の「現実」は全く異なります。むしろ、教会は私たちが生きる「現実」を無視しています。牧師や神学校のお偉い先生方は礼拝の説教や教会の聖書研究会、あらゆる場面でことあるごとに「隣人愛」の大切さを語ってきます。彼らのご高説自体は正しいものです。

しかし、問題なのは、それが口だけという点です。牧師や神学者たちは口先だけは麗しく、自分たちの生活や実践には全く結びついていないのです。自分たちの教えていることと、自分たちがやっていることが全く乖離している。いや、むしろ真逆の行いをしているのです。

実践の伴わない教えは、単なる机上の空論、絵に描いた餅です。何の役にも立たないどころか、むしろ有害なものに成り下がります。

彼らは愛を教えながら、実際は常に人の弱みをどうやったら握れるか画策しています。愛という言葉は彼らにとっては何の価値もない言葉であり、詐欺のための方便に過ぎません。

牧師や神学者たちは、イエスの教えるところの愛よりも、イエスが批判しているところの富と栄光を好んでいます。自己中心的な生き方を徹底しており、他人から受ける恩や愛には形式的には感謝の意を表しますが、腹の底では感謝など微塵も感じていません。

牧師や神学者たちは愛という方便を語る一方で、いかに他人から搾取できるのかという考えを張り巡らせています。独善的であり、多くの牧師や神学者たちはサイコパス(精神病質)です。ケヴィン・ダットンの統計調査による、サイコパスの多い職業の上位10位に聖職者がランクインしています。

私は教会の内部で牧師や神学者たちと共に生活し、一緒に現場で働いていたので確信をもって言えます。以下に書くことが多くの牧師や神学者たちに共通している性格の傾向です。

1.極端に自分本位(自己中心的)な思考をする。また異常なほど自尊心が過大であり、自分の障害になったり、自分を脅かす可能性のある存在を徹底的に排除する(ただし非常に周到なやり方で)。

2.良心が異常に欠如している。倫理的なものを頭では理解していても、自分にとってそれが価値あるものであると思えない。口先では倫理的なことを上手に言葉を語るが、自分にとっては無関係なものであると考えている。頭では理解しているが、心では価値に値しないという相反する態度をいとも簡単にやってのける。また倫理や法規に反することも良心の呵責なしに実行できる。

3.自分以外の人間に対して極端に冷淡で共感することが出来ない。他者の痛み・悲しみを理解することが出来ないし、それを自分の感情として共感することに全くできない。基本的に自分以外の存在はゴミか虫けら程度にしか認識していない。

4.日常的かつ慢性的に平然と(当然のこととして)嘘をつく。人を騙す、虚偽のことを語ることに罪悪感・罪責感・後悔はない。嘘や詐欺によって引き起こされる他者の不利益を予想していても、自分の利得のことしが考えないし、それが正しい生き方であると確信している。

5.罪悪感が皆無で、他人が傷ついたり不利益を被ることを何とも思わない。むしろ、良心が欠如しているため、本当に何も感じることが出来ない。また、自らの行動に対して責任を取ろうとしない。自分の犯した失敗やミスを何とかして回避し、他人に擦り付ける。もしくは、口先で上手い具合に取り繕うことで自分は責任から逃れようとする。自分の体面だけは守る。また、他人の成功をどうにかして自分のものにしようとする。これも自己中心的性格から来るものであると考えられる。

6.しかし、1~5の特徴にもかかわらず表面的な人格は非常に魅力的である。口が達者で、人間関係を構築することや人の心に取り入るのが上手い。発言においても所作においても自分が他人からどう見られているか、どうすれば人の心に付け入ることが出来るのかに習熟している。殆どの人から見るならば非常に魅力的で誠実な人物に感じられる。しかし、その実、彼らにとって人間関係などは人を自分の都合の為に利用するためだけの道具であり、一方的な関係である。友情などの相互関係などには全く価値を感じていない(表面的には親しげに見える)。

以上が、牧師や神学者たちの多くに見られる典型的な性格の傾向です。

教会の聖職者にある種の理想を持っている人には、とても信じ難いことかもしれませんが、しかしこれが私が「現実」に彼らと生活し、共に働いてきたことから見えてきた事実です。私が実際に経験してきたものであるし、私もまた彼らから非常に痛めつけられたという「現実」があります。

牧師や神学者たちは正に悪魔的な人格の持ち主であります。しかし、教会においてはこの様な醜悪な人格に出会うことはしばしばあります。

教会で教えられている「イエス・キリストは救い主であり、主を愛し、主に従って生きる」こと、「主イエスが我々を愛したように、我々も互いに愛し合って生きる」ことなどの「一般化・理念化されたもの」は、それらを教えている牧師や神学者たちの「現実」からすれば全く無価値なものに過ぎません。

愛・誠実などという教えは教会の「現実」においては机上の空論にすぎません。むしろ、もはや愛・誠実など教えは空想になってしまったのかもしれません。「現実」の教会においては独善・欺瞞などが蔓延しています。

教会を「現実」から見たとき、「一般化・理念化されたもの」としての教えは最早完全に瓦解し、空しいものとなっているのが事実です。

広告