1.    祈りの誕生

祈りとは、文明の草創期から既にあったものです。祈りとは、人類が誕生した時から、行い始めた行為であるとされています。文化人類学的に言えば、祈りとは特定の宗教的な行為ではなく、人間にとって最も根源的な欲求に基づいた活動様式の一つなのです。祈りとは、人類全体において普遍的な活動なのです。何故なら、祈りとは、宗教の価値観や個人の思想を超えて、人類の発生から現在においてまで常に行われ続けてきたからです。

祈りの様式は、無数に分類されます。祈りとは、神聖視する対象、感謝する対象、恐怖する対象に対しての何らかの意思疎通を図ろうとする人間の行動様式です。また、その対象への意志の表明や表現することそのものが、祈りであるとも言えます。ですから、祈りの方法は、人間の取れる行動の数だけあると言えます。祈祷者の独白、呪文、定型句の朗誦、合掌、平伏、行進、踊り、円舞、歌、音楽、儀式そのもの、生贄をささげる行為、など諸々の行動・所作が祈りと結び付けられます。

祈りとは元々、文明の草創期から存在していた自然崇拝や祖先崇拝によって生まれていったと考えられています。祈りは、宗教心と同じく人間の根源要素です。ですから、祈りと宗教心は非常に密接な関係にあります。人間が、自分たちの生活を取り巻いている自然へ目を向け、その恵みに感謝する時、畏敬の念が沸き起こり、自然の恐ろしさに慄く時、畏怖の念が生まれました。この自然への想いが生まれた時に、祈りも生まれたのです。実に祈りとは、自分を超えたものに目を向けることによって生まれてきたものなのです。人間が太陽や天候など、自分たちの力ではどうすることも出来ない現実に直面した時、自分たちを超えた存在を感じ、その存在への畏れ・感謝として祈りは生まれてきました。つまり、祈りは宗教心そのものということが出来ます。また、私自身は支持しませんが、このように表現することも可能でしょう。人間の根源要素として己を超えた存在を畏れる心=宗教心があるならば、祈りは人間の根源的な行動の一つと見なすこともできます。

2.    考える祈り、思う祈り

祈りには、いくつかの段階がありますが、ここでは「考える祈り」と「思う祈り」について考えてみたいと思います。

「考える」とは、「カ+ムカウ」という語源に由来するそうです。カは場所とか点を意味し、ムカウは「対する」や「向い合せる」という意味です。つまり、考えるとは「場所やものに対する」ということです。考える祈りとは、神を何らかの意味で対象化するということです。祈りを神との対話と捉えるならば、これは考える祈りということです。考える祈りにおいては、神は他者化されています。神は、私の外にあるということです。自分の外にいるからこそ、対話が出来るのです。この祈りは、山を眺める祈りと言われています。眺めるとは対象と自分との間に距離があるということです。自分と祈りの対象が明確に区別されていることが「考える祈り」と言えるでしょう。

「思う」とは「重い」という語源に由来するそうです。つまり、思うとは「重みを感じる」ということです。重みは、自分が対象に触れていないと感じることはできません。つまり、重みを感じることは、対象と自分が離れていないということです。対象と自分との距離がゼロであり、自分と祈りの対象が一体化している状態です。「思う祈り」は、山に登る祈りと言われています。山に登れば、外から見えていた美しい風景は見えなくなりますが、山との直接の関わりが生まれ、山と一体化しています。思う祈りとは、祈りの対象と自分との距離が無くなり、合一した状態、精神統一状態にあることを指すのでしょう。

3.    東西の祈り

東洋と西洋の祈りの特徴について考えていきます。東洋の祈りは、体と心が祈る時の母体となっています。例えば、禅では、息を調え、体を調え、心を調え、禅に入っていきます。私たちにとっては、至極自然な流れに感じます。しかし、西洋的に見るならば、重大な点が抜けていることに気付きます。それは、頭です。東洋的な祈りには、頭を調えること、つまり、知性や意志を用いることが抜けているのです。息、体と来て、頭を飛ばして心へ向かっているのです。逆に、西洋の祈りは頭と心が祈りの母体となっています。祈りは、知性や意志が中心的であり、体という要素がすっぽり抜けているのです。祈りの姿勢についての指導は殆どなされませんし、身体への配慮に関心がありません。西洋の祈りの特徴は、祈りにおける身体的要素を軽視し、知性によって祈る点にあります。

東洋の祈りの構造は、体を調えることによって地固めをし、心に影響を与えていくことにより祈りの対象に向かっていきます。西洋の祈りの構造は、知性や意志による強い力が心に影響を与えていくことによって、祈りの対象に向かっていきます。

 

一見すると、東洋型と西洋型は全く異なった構造に見えます。しかし、東洋型も西洋型も祈りの発展段階や到達点が非常に似通っています。東洋型は「体で祈る」、西洋型は「頭で祈る」ですが、どちらも最初は「私が祈る」という「考える祈り」という段階から出発します。しかし、次第に「祈る私」という自己が透明になっていき、空虚になります。そして、最後は、祈る主体と祈る対象が合一していくという過程を辿ります。

祈りの主体である自分と祈りの対象である神が合一していくとは一体どのような状態なのでしょうか。私の認識論(記事を参照)においては、神とは自分の認識によって構成された内的存在あるいは内的世界そのものと考えられます(*用語については記事を参照)。祈りの最高段階においては、認識の根源である主体(=私)と(認識が構成した)内的存在である神(あるいは世界そのもの)が同一のものと感じられるということでしょうか。いわば、私が私自身(神・世界そのもの)になるということです。つまり、祈りとは自分自身に向かうことと言えるでしょう。未だ答えにたどり着けません。

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