質問4つ目

まーやー8:初めて聖書を手にすると、聖書は分厚いものですから、どこから読んだらよいのか分からないと思います。1ページ目から読もうとすると創世記ということになりますが、それはそれで難しいと思うんですね。初めて聖書を読む場合、お奨めの箇所がありましたら、教えて頂けないでしょうか。

Tama8:そうですね。聖書は全部で66巻で、旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻で構成されています。旧約聖書だと創世記が一番最初の巻で、そこで最初に出てくるのは神が天地を創ったということで、初めてだと中々受け入れ難いことも書いてあります。取っ付きやすい巻だとは言えないですね。

新約聖書ではマタイによる福音書が一番最初にありますけれども、これも一番最初はイエス・キリストの家系図から始まります。そこを我慢して読んでいくと、イエスの誕生、いわゆるクリスマスの出来事も出てくるので面白くなってきますが、中々そこに至るまでに挫折してしまう方も多いと思います。

その様なこと考えると、私個人としてはマルコによる福音書が入門としては取っ付きやすいのかなと思います。マルコ福音書は福音書の中で一番ページ数が少なく、マタイやルカのような余分な(執筆し編集時に入り込んだ)装飾がないので、読みやすいと思います。少し難しい話しになりますが、福音書で最も古いのがマルコ福音書です。色々説はありますが、紀元50年代から60年代に書かれたと言われています。他の福音書ですと紀元70年代以降から90年代にかけて書かれました。また新約聖書の他の巻だと紀元100年以降に書かれたものも含まれています(例えば公同書簡のユダの手紙)。イエスの死後これだけ時間が経って書かれたものとなると、イエスが生きていた生の姿からだいぶ離れてしまいます。そう考えるとマルコ福音書というのは、イエスが活動して死んだ時代から20~30年しか時間が経っていません。

私が何故マルコ福音書をお奨めするのかと言いますと、生の人間イエスの魅力が一番濃く伝えられているのがマルコ福音書だと考えるからです。マタイ福音書やルカ福音書、ましてヨハネ福音書となると、神格化された、神の子としてのイエス・キリストが余りにも前面に出ていて、人間イエスから感じるダイナミズムというのがマルコ福音書と比べると少なくなってしまっていると思います。もちろんマルコ福音書も執筆時と編集によってある程度加工されていますが、イエスの生の言葉に近いものを随所に感じられます。イエスとはどんな人物なのか、キリスト教の根本的な教えはどこからスタートしたのかというのを知るにはマルコ福音書が一番良いのではないかと考えています。

また、使徒言行録も新約聖書の入門としてはお奨めです。使徒言行録はイエスの死後、弟子たちがどのように活動してイエスの教えを広めていったのかという歴史ドラマが書かれています。どの様な時代、どの様な社会情勢の中で宣教をしていったのかが分かります。新約の他の書物は、それぞれ教えを語っていますが、その書物を読んでいるだけでは、なかなか当時の社会や世界が浮かび上がってきません。聖書というのは、宙に浮いた教えを語っている書物ではないんですね。いつの時代にも通用する普遍的な哲学の概念が書かれている書物でもありません。聖書というのは、それぞれの時代を生きた人々の生き様の記録とも言えるでしょう。

特に、新約の書物はほとんど同じような時代を生きた人たちによって書かれました。新約聖書が書かれるに至った世界は、1世紀のイスラエル、パレスチナ、地中海の世界です。聖書に書いてあることの中から何か高尚な教えを抜き出そうというのは、聖書の正しい読み方とは言えません。新約聖書には、その時代の人々が、どんな生活をし、どんな社会情勢に置かれていて、何を求め、何を訴え、何と戦い、何を変えようとしたのかという、生き様が書かれています。イエスもまたその当時の社会や政治の不条理や不正義に立ち向かった人の一人です。福音書をイエスの教え集として捉えるのではなく、イエスという一人の男がどんな生き様であったのか、何のために立ち上がり、戦おうとしたのかという視点で読むべきです。

聖書にはその様なダイナミズムで溢れています。その様な人間・社会・歴史のダイナミズムを無視し、高尚な教えだけを読み取ろう、それだけを教えようとするには、聖書に向かう正しい姿勢とは言えません。むしろ、教会的な偏った見方でしかありません。教会は聖書の中にあることの中から自分たちの都合の良いものを抜き出して教えています。その様な時代背景を理解し、新約聖書の中にあるダイナミズムに一番触れられるのは、使徒たちの活動や言葉を記録した使徒言行録です。

教会の聖書研究ではやたらと難しい書物を取り上げます。例えばローマ書とかガラテヤ書などをよく取り扱おうとします。しかし、これらのパウロ書簡は、当時の世界観や社会情勢が分かったうえで読まないと、なかなか理解できないものです。聖書を初めて読む人に読ませようとするものではありません。

もう一つ大切なことがあります。それは聖書のどこを読むかという以前に、どんな聖書を手に取るかということが重要です。世の中には様々な翻訳の聖書が出回っています。旧約聖書の原点はヘブライ語・アラム語で書かれており、新約聖書はギリシャ語で書かれています。よく聖書は英語で書かれたものであると勘違いしている人がいますが、英語もまた原典からの翻訳に過ぎないんですね。ですから、英語ができるからといって無理に英語の聖書を買う必要はありません。日本語の聖書にも優れた翻訳はあります。といっても、多くの翻訳はその水準に達していないのも事実ですが。特に個人訳の聖書には気を付けた方が良いでしょう。というのは極めてレベルの高い翻訳から、信じられないほどレベルの低い翻訳も出回っているからです。新約聖書の個人訳でしたら、田川健三の翻訳が極めて優れています。

広く出回っているもので、ある一定の水準以上の翻訳、ある程度信頼と安心をもって読める翻訳は、新共同訳、口語訳ですね。新共同訳は主に礼拝で朗読されることを想定して翻訳されました。口語訳は新共同訳よりも古いものですが、より水準の高い翻訳であり、安心して読めます。あまり有名ではないですが、非常に優れた翻訳はフランシスコ会聖書研究所の「原文校訂による口語訳」です。これは優れた翻訳のみならず、丁寧な注がついています。これが特に評価に値します。聖書というのは何千年という幅の歴史の中から、様々な時代に書かれた書物が集められて編集されたものです。ですから、聖書の中のそれぞれの巻によっても書かれた時代が全く異なります。そうすると、同じ言葉でも時代によって違う意味で用いられていることもありますし、当然社会や宗教的な常識も違うし、社会背景も異なります。ですから、注なしに、聖書を読んで、それで理解しろという方が困難です。学術的に検討された注を参考することで、その巻の時代背景を正しく掴めることができます。新共同訳、口語訳はそれぞれ優れた翻訳ですが、注がないのは残念です。その点、フランシスコ会聖書研究所の「原文校訂による口語訳」や田川健三の個人訳は注が豊富なので、本文を読んでも分からない箇所は注に当たって調べることができます。

そして注意してほしい翻訳もあります。それは新改訳聖書ですね。これも広く出回ってはいます。ですから、知らない人からすると一般的な聖書だと思うでしょう。しかし、新改訳聖書というのは、ファンダメンタリズムの人々、原理主義・根本主義、福音派の人々が自分たちが納得するために翻訳した聖書です。ですから、原典からあたって翻訳したとうたってはいますが、その翻訳の仕方や解釈は原理主義的なものです。自分たちの教えや考えに合わせて、納得できるように翻訳された聖書です。ですから、学術的公平性には欠けています。正しい翻訳というものはありませんが、どれだけ学術的に厳密で、公平かつ公正に翻訳できているのかということが聖書の翻訳の水準や質に直結します。この様に聖書を読み始めるに当たっては、どんな翻訳の聖書を選ぶのかということも非常に大切です。