以下の内容は田川健三『書物として新約聖書』に準拠しています。

前回の「異端」であるマルキオンがキリスト教史上初めて新約正典を成立させてしまったという話しからの続きです。

マルキオン

キリスト教正統派から「異端」として排除された者の常として、本人やその信奉者たちの著作は今日残っていません。従って、正統派側が彼を批判した文書からうかがい知る以外に方法がありません。それだけに、かなり気を付けないと正統派の撒き散らした根も葉もない悪口をそのまま事実と誤認することになります。

マルキオンが生まれたのは、彼が活躍した年代から逆算すれば、85年ないしそれ以後でしょう。ポントス地方の出身。ヒュッポリトスはポントス地方のシノペの町の出身としています。今日のトルコ北部、黒海岸の港町です。その教養からして、彼自身ないし少なくとも彼の育った家庭はユダヤ教徒でした。マルキオンの父はシノペの司教でした。つまり、彼は父親と共にキリスト教に改宗したか、あるいは生まれながらにしてキリスト教徒だったと考えられます。しかも彼はその父親から異端として破門されています。

そこからがマルキオンの活動となっていくのですが、マルキオンの生涯を追うことが目的でなないので、ここでは残念ながら紹介できません。

マルキオンが死んだのは160年前後と言われています。彼の死後もマルキオン派はますます活発になり、多くの信者を獲得していきます。彼のキリスト教理解は少なくとも当時の知識人の信者の間では、かなり説得力があったのでしょう。当時にしてみれば、正統派教会に拮抗するぐらいの大きな勢力にまで拡大していきました。

歴史認識として重要なのは、これらの巨大な「異端」の流れが歴史から消滅したのは、コンスタンティヌスによってキリスト教がローマ帝国の支配の宗教となって以後、正統派以外のキリスト教がキリスト教帝国となったローマによって弾圧されたからです。つまり、キリスト教が帝国の公式の宗教となると、公式のキリスト教以外は許されなくなります。キリスト教が優遇されたということは、優遇されないキリスト教の流れは叩き潰されたということです。それは、今やローマ帝国にとってキリスト教は国家統一の原理となったからこそ、キリスト教が内部で衝突しあっていたのでは困る。だから、ローマ帝国は正統派以外のキリスト教を組織的に根絶しようとしたのです。これこそが人間の歴史のいやらしさと言うべきでしょう。

マルキオンはキリスト教の福音を純化して、キリスト教の中に大量に残っているユダヤ教的要素を除去しました。その様な思想を持つだけでなく、実際にとことん実行したのがマルキオンでした。パウロの「キリストは律法の終わり」(ローマ10:4)ということを純粋に信じるならば、福音(キリスト教)と律法(ユダヤ教)は両立しえないのです。キリスト教の礼拝において旧約聖書が引用され、旧約の権威に基づいて福音を立証しようとし、旧約に書いてあるからこれは真実であると言われ続ければ、そこには何か矛盾があるのではないかと考えてしまいます。「キリストは律法の終わり」ということを純粋に信じれば、律法によって人間は救われるのではなく、福音の信仰によって救われることになる。とすると、もはや律法による生は成り立たなくなる。その考えをマルキオンは徹底的に貫こうとしました。その意味で彼の活動は、宗教改革―その宗教の出発点の姿に戻ろうとする運動であったとするカンペンハウゼンの指摘は当たっています。そしてマルキオンはその思想と活動の集大成としてマルキオン聖書なる新約正典を史上初めて作りました。

マルキオン聖書

マルキオン聖書は福音書と使徒書という二部から成っています。今日の私たちからすれば、新約聖書をこの様に2つの部分で構成するのは当たり前であると思います。しかし、そもそも福音書と使徒書の2つの部分からなる新約聖書を作ろう、という発想そのものが当時には全くなかった新しいものであり、マルキオンの独創なのです。

マルキオンの実行力は、単にいくつかのキリスト教文書を改訂するというものではなく、キリスト教会の為に新しい聖書を作ろうとした点にあります。マルキオンは正典を作るために、ルカ福音書とパウロ書簡を採用しました。もっと言うならば、「福音」という単語を「福音書」の意味に用いるのも、マルキオンが史上初めてでした。ちなみに、四福音書がまとまった権威として扱われるようになったのは、マルキオンより後のエイレナイオスになってからです。マルキオンにとっては、最初から「福音」は一つであるべきで、それは今日私たちがルカ福音書と呼んでいるものでした。

もっとも、ルカ福音書をそのまま採用したわけではありません。マルキオンの目から見れば、この福音書とて間違った信仰(旧約聖書を重んじる姿勢)に汚染されていました。従ってそれを純化して、(彼にとっての)もともとの福音書を復活させなければならないと考えました。これは、パウロ書簡を純化して、(彼にとっての)「本当の」パウロのテクストを復活させようとしたのと同じことです。その作業はある意味で、今日の学者のやる正文批判と似ています。正文批判とは後世の写本の過程で色々と変わってきたテクストを前にして、学問的方法を駆使して大元のテクストに辿り着こうという作業です。もちろん、マルキオンの場合は、そのような学問的作業ではなく、思想的に純粋なテクストを作ろうということでした。

なお、パウロ書簡についても、マルキオンは今日の新約聖書でパウロ書簡とされているものを全て採用したわけではありませんでしたし、並べる順番も今日とは異なっています。即ち、マルキオン聖書の順番に従って挙げると、まずガラティア書簡、次いで第一・第二コリントス書簡、ローマ書簡、第一・第二テサロニケ書簡、ラオディケイア(エフェソス)書簡、コロサイ書簡、ピリピ書簡、ピレモン書簡です。マルキオン聖書には牧会書簡(第一・第二テモテ、テトス)は出てきません。そもそもマルキオンが牧会書簡の存在を知っていたのかも分かりません。カンペンハウゼンは、牧会書簡はマルキオンに反対するために正統派教会によって創作されたものではないかと推測しています。

マルキオン聖書のパウロ書簡の配列の順番についても、既に出来上がっていたパウロ書簡集の配列をマルキオンが変えたのではなく、彼が史上初めて上記のように並べたのです。マルキオン以前はそもそも、パウロ書簡をこのように集めて、それに正典的権威を付するという行為そのものがなされていませんでした。従って、配列の順番というものもマルキオン以前にはまだありませんでした。もっとも、マルキオン自身についても配列をしっかり考えたかどうかは疑わしいです。マルキオンが順番にどこまで拘っていたのか分からないからです。ただ、マルキオンが何故ガラティア書簡を最初に置いたのかは理解できます。それは、この書簡は彼にとって全てを理解するための根幹だったからです。ガラティア書簡の律法批判、ユダヤ教の生活習慣をキリスト教会に持ち込むことに対する強い批判などをマルキオンは高く評価しからです。ハルナックは、ガラティア以外の書簡は単に長さの順に並べただけ(コリントス書簡は2つ合わせればローマ書簡より長い)だと推測しています。

マルキオン聖書の特徴として、第一にマルキオンはその編集にあたって削除することしか行いませんでした。文章を書き変えたり、書き加えたりしませんでした。マルキオンの作業を聖書に対する思い切った改変だと思われる方もいるかもしれないが、その時はまだ新約聖書なるものは存在していなかったのですから、彼の仕事は存在していた聖書に対する改変ではなかったのです。今までキリスト教会独自の聖書が存在していなかったところに、編集作業をして正典たる聖書を提供しようとしたのです。パウロ書簡にしても、そういうものがまだ存在していなかったところに、書簡を集めて編集し、これこそは正典たりうる「使徒書」として提示したのです。マルキオンと比べれば、それ以前のキリスト教会の著者たちはもっと好き勝手に過去の文献に手を加えていました。マタイ福音書やルカ福音書は、マルコ福音書を自分たちの意見に都合のいいように改竄し、いろいろな新しい話を付け加えたり、文章を大幅に書き変えたりしています。マタイとルカは、マルコ福音書をもとに自分たちの好きなように作り変えたと言ってもいいでしょう。他方、パウロやペテロが実際に書いたわけではない「書簡」もパウロやペテロが著者であるという体裁で次々と作られていました。つまり、新約の正典が定まっていなかった時代なので、キリスト教文書もまだ固定されずに次々と書き変えられ、使徒たちの名をかたって、新しい文書がどんどん作られていたのです。そういう時代だったのです。

そういう時代に、「これこそが最も古い、最も権威ある文書だから、これを固定してキリスト教会の正典にしましょう」と呼びかけたのがマルキオンだったのです。確かに事実としてはマルキオンは自分の意見に合わせて好き勝手に改竄しています。決して学術的に「最も古い」ものを尊重して再現したわけではありません。しかし、それ以前に蔓延していた様々な創作や改変の試みに比べると、マルキオンの行ったことは、ただ存在している文書の中の、後に挿入されたと思われるものを除去する作業だけだったのです。それまで蔓延していた改竄と比べればいかにも慎ましいものです。

イエスの死後100年も経つと、伝承は色々改変されるし、最初の記憶も失われ、あてにならない伝承も色々作られます。マルキオンとしては、ここらで出発点となる伝承の真の姿と思われるものを、これ以上動くことない文書として固定すべきだと考えていました。だから、マルキオンは文書に拘りました。その意味でも、マルキオンの作業は創作ではなく、古い文書の純化でなければならなかったのです。そして、この様なマルキオンの活動の集大成が、文書として正典を確立するという作業だったのです。マルキオン聖書には特定の呼び名はありませんでした。新約聖書とも呼ばれていませんでした。それは、マルキオンにとって旧約聖書は破棄されたものであるので、彼にとっては正典はこれだけだったからです。正統派教会となると、旧約聖書を保持しつつ、同時に独自の正典を確立しなければならなかったので、両者の区別が求められ、「旧約」「新約」という名前が必要になったのです。

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