質問5つ目

まーやー:教会に行くと献金をするという話しがネットでも話題になっているのですけれども、そこに若い人は不安を覚えると思うんですね。いくらすればいいのだろう、とかですね。その辺り、献金についてアドバイスやお考えを教えて頂きたいと思います。

Tama:聖書では、献金についてどう書かれているかと言いますと、旧約聖書の律法に十分の一献金の根拠があります。この十分の一献金というのは、真に強烈なものです。自分の全財産や収入の十分の一を献金しなさいという教えです。つまり、教会に献金するお金というのは自分の余剰財産の中から幾らか出すというものではありません。この考え方はユダヤ教からきたものです。持っているもの、働いて得たお金のまず十分の一を先に神にお捧げするというものですので、生活に非常に関わってくる、厳しい教えですね。昔から、この献金について色々な議論がされてきました。

しかし、この十分の一献金のルーツを探ってみると、レビ記27:30(原文校訂による口語訳)「土地の実りであれ、木の実りであれ、土地が育むものの十分の一は主のものである。それは主の聖なるものである」と書いてあります。つまり、十分の一献金と言われているものは、元来収穫物の十分の一を神に捧げることであって、金銭を要求はしていないんですね。土地が主のものであるから、土地が育んだものも主のものであると言う理屈です。

収穫物は金銭の代替物じゃないかという意見があるかと思いますが、それは的外れです。社会的・文化的には収穫物が金銭の代替物だと言えるかもしれませんが、聖書は宗教的な理屈で根拠付けていることを見逃してはいけません。地は神が創ったのだから、地の実りも主のものであるという宗教的な理屈でレビ記は十分の一の捧げものを規定しています。では金銭は土地が育んだものでしょうか、地の実りでしょうか。それはどう考えても違いますね。金銭というものは人間が作り出したものです。金銭は自然が育んだものではありません。どう考えたって、金銭は自然からの収穫物ではないですね。金銭は自然に属していません。

ですから、聖書に立ち返るならば、そもそも十分の一の捧げものを十分の一の金銭による献金にすり替えることが誤りなのです。収穫物を金銭として要求し出したのは、聖書に根拠のあることではなく、宗教的な支配者による自分たちの都合のよい解釈に過ぎないんですね。

また、もっと聖書に当たってみますと、民数記18:21,24(原文校訂による口語訳)「見よ、わたしは、レビの子らに対しては、彼らが会見の幕屋の仕事をするその報酬として、イスラエルでささげられるすべての十分の一を、彼らの相続財産として与える」「イスラエルの子らが奉納物として主にささげる十分の一を、わたしはレビ人に相続財産として与えるからである。それ故、彼らはイスラエルの子らのなかで相続地を持ってはならないと、わたしは彼らに言ったのである」と書かれています。

この民数記の記述によりますと、捧げものの十分の一は、レビ族の取り分だということです。レビ族は相続地(土地)を持っていませんでした。土地を持っていないということは、収穫物を自ら育て、手に入れることはできません。それが祭司という特別な役割を与えられたレビ族の宿命です。それ故、土地を持たず自ら収穫物を得られないレビ族の為に、神に捧げられた奉納物の十分の一を自らの取り分として良いということになりました。非常に現実的で合理的な配慮です。レビ族にも生活がありますので、この様な配慮は必要でした。

それにしてもレビ族の取り分は十分の一の捧げもの中の更に十分の一です。なんと慎ましいものでしょう。今の牧師は十分の一献金を丸ごと自分の取り分としています。

そして、もっと厳密に言うならば、そもそもこの規定(捧げものの十分の一を取り分としてよい)というのは、レビ族だけに適応される規定です。土地を持つことが許されていない部族であるレビ族の特別の事情に配慮して作られた規定です。ですから、本来レビ族以外がこの規定を勝手に適応することは許されません。ですが、十分の一献金という名目で、聖書に何の根拠もないのに、聖職者たちは献金を自らの取り分としています。不思議ですね。

さて、現在教会では、「十分の一献金は天に富を積むことですから、どんどん献金しましょう」と言って勧めます。しかし、教会が言っていることが誤っているのは明らかです。

イエスはマタイ6:20-21(原文校訂による口語訳)で「あなた方は自分のために天に宝を積みなさい。そこでは虫が食うことも、さびがつくことも、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のある所に、あなたの心もある」と言っています。イエスは、金銭を天に積みなさいと言っているでしょうか。言っていません。むしろ、イエスがマタイ23:23(原文校訂による口語訳)で言っている「律法学者やファリサイ派の人々、あなた方偽善者は不幸だ。あなた方は、はっかや、イノンド、茴香(ういきょう)の十分の一は納めるが、律法の中で最も重要な正義、憐れみ、忠実をないがしろにしている」という文脈で理解されるべきです。

つまり、天に富を積むと言うのは、献金を収めることではなく、正義・憐れみ・愛の実践のことです。十分の一献金をしても、教会にお金を納めるだけで、天に富を積むことにはなりません。イエスの教えを素直に受け止めるならば、愛の実践こそ天に富を積むことなのです。「あなたの宝のある所に、あなたの心もある」とイエスが言っているように、その様な愛を実践できる心こそあなたの宝なのです。

また、新約聖書には献金すること自体の議論もあります。ルカ福音書の中には貧しいやもめが僅かな銅貨2枚を献金する話が出てきます(ルカ21:1~4)。イエスはそのやもめを見て、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」(ルカ21:3)と言っています。この話においてイエスは律法を受け継ぎつつも、献金はお金の量ではないのだと教えています。自分の持っているものの中からどれだけ出すことができたかという意味もありますし、精神的な献金、思いをどれだけ捧げたかという意味でもあります。どれだけ真心をもって神にお捧げしたのかということです。当時の金持ちたちの様に、どれだけ沢山のお金を献金したのかという、量を問題とするのではなく、真摯な思い、献金の量ではなく捧げる真心について教えたのだと思います。

時代は飛んで現代の話しになります。現代において献金がどういう扱いなのかというと、使途目的の大半は牧師の給料の為にあります。天に富を積むということを教会は表向き教えていますけれども、実態としては牧師の給料、教会の運営の為に使われています。教会はもっとそのことを公表すべきだと思います。

礼拝中に献金がされる時、献金の祈りでは「これを神様の御用の為にお用いください」と祈っていますね。そうすると信徒の皆さんは、「ああこれは尊いことに使われているんだ」と思われる方は多いと思います。凄く真面目で誠実な牧師の為の給料の為だったら、神様の御用の為になると思いますが、多くの牧師はそうではないので、自分の趣味の為、自堕落な生活を維持するために使われてしまうことがしばしばあります。教会の運営と言いながら、訳の分からないものの為に支出する場合もよくあります。珍しくないことです。

そして、信徒はそういう事実を知ってしまうと、「自分は何のために献金をしているんだ」ということになっています。それでも構わないから献金する人はそれでいいと思います。けれども、その事実に疑問を抱くようならば、自分の行っている教会の実態と自分の感情をよく比べてみて、凄く不満であるならば献金はごく少額か献金をしなくても良いのではないかと思います。何故かと言うと、極論を言うとイエスの教えに行き着くと思います。精神的なものをどれだけ神に捧げられたか、精神的なものに比重を置くべきで、どれだけ多くのお金を出せたかということが大事ではないのです。

献金してもお金が神の為ではなく、無駄なことの為に使われてしまうことが今のキリスト教の多くに見られます。そうすると例えば祈りの中で自分がどれだけ思いを込められたかとか、言葉だけはなく愛の実践の中でどれだけ思いを込められたかとか、そういうところでのお捧げをしていったら良いのではないかと思います。クリスチャンであるならばね。

まーやー:これが教会の現実ですよね。実際、教会では1円でも100円でも多くかき集めたいと思っているのが実態ですね。

Tama:そうなんですよ。だから私は献金しなくても良いと思いますし、そもそも教会にいく必要がないのではないかなと思っています。

まーやー:献金をしないと教会での立場が軽んじられるというのが今の教会の在り方であると思うんですけれども。お金と信仰が密接に繋がっているというのが残念です。

Tama:非常に残念ですね。アメリカのメソジスト教会では献金額によって教会の席が決まっているんですね。献金を沢山している人は、正式な名前は分かりませんがVIP席が用意されていて、最前列です。献金額が少ない人であれば後ろの方の説教壇が見えにくい席になるということです。これは生々しいですよね。

日本の教会では席という形として現れることはないと思いますが、献金額が掲示板に張り出される教会もあるみたいです。まーやーさんがおっしゃったように、献金が教会内での待遇が違うということには繋がりますよね。だから教会には行く必要がないんですよ。

私は終始一貫して言っていますけれども、教会に行きたいのであれば行けばいいと思いますし、教会に対して疑問があるのでしたら、割り切って教会に行かない方がいいと考えています。私は教会に行かない方がいいと言い続けています。キリスト教のことを知りたいのでしたら、自分で勉強した方がいいです。