質問6つ目

まーやー:率直に言って神様というのはいるのでしょうか。

Tama:なるほど、なかなか難しい質問ですね。大災害が起きたり、悲惨な事件・事故が起こると、日本では余りそういったことは言われませんが、アメリカとかですと「神は何故沈黙されているのか、神は我々をお見捨てになったのか」とか言ったこと報道とかでよく耳にします。こういう言い方をすること自体が、まず神がいるということを前提としている考え方です。だから「何故神は行動を起こさないのか」という思いが出てくるのです。彼らにとっては神というのは普段は恵みや救いを与えてくれる存在だと考えられているんですね。だからこそ、こういう大災害の時に神は何をしているんだという思いを怒りや悲しみとしてぶつけているのだと思います。この様な問題を神学で言いますと、神義論と言います。神義論とは神は正しいのか、神は正しいならば何故我々人類を脅かす災害の時に立ち上がらないのかを考えていく学問です。

神義論で特に有名なのは旧約聖書にあるヨブ記ですね。書物として残っている神義論の中ではかなり古い部類に入ると言えるでしょう。ここはヨブ記の解説ではないので、ストーリーについてはさっと流す程度にします。ヨブ記は正しい人に悪い事が起こる、何も悪い事をしていないのに苦しまねばならないという『義人の苦難』というテーマを扱った物語です。

ヨブという人物は神の前に正しく、誠実で、裕福な人でした。裕福であるということは現在の感覚と異なります。強欲ゆえに富を得たということではありません。当時において裕福ということは、義人であるから、正しい人であるから神が富を授けたという理解がされていました。つまり、裕福であるということは神が義人であると認めているということになります。

だけれどもその彼に、様々な苦難が襲い掛かります。家畜や財産を失い、また家が倒れ、大切な子どもたちは皆死んでしまいました。また自身も皮膚病に苛まれることになってしまいます。しかし、それでもヨブは神に対して愚痴一つこぼしませんでした。その様な悲惨な中にあって三人の友人たちがヨブを慰めるために訪問しました。しかし、やがて友人たちはヨブがこの様な悲惨な目に遭うのは実は彼が何か罪を犯したことへの報いなのではないかと考えるようになり、ヨブと議論をするようになります。

その議論を簡単に言うと、友人たちは、ヨブが何か悪い行いをしたからこの様な苦難が起きているのではないか、つまり罪への罰、因果応報説を主張します。しかし、ヨブはそれに反対し、「いや自分は何ら神の御前で罪を犯していないし、やましいことも不正なこともしていない」と反論します。友人とヨブの議論はそのままずっと平行線をたどっていきます。

結局、ヨブ記の結論としては、最後に神がヨブの前に顕現して、こう言います。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(ヨブ38:2)。つまり、ヨブに対して神や神のなさる計画のことをお前は全て理解した気でいるのかと一喝するわけですね。また神はヨブにこうも言われました。「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするためにわたしを有罪とさえするのか」(ヨブ40:8)。

神の正しさの前に、自分は罪は犯していないという人間的な正しさを主張することは、神に対する挑戦であるという解釈もできるでしょう。そしてヨブは神の臨在を目の前にして、ヨブは「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(ヨブ42:2~3)と言います。

ヨブは神の臨在への畏怖から、自分の自惚れ、自分の小ささを知り、自分が何者であるか分かっていないのに、神に対して色々口答えしてしまったと反省します。そして、これからはただ神を畏れます、というような態度になります。そして、ハッピーエンドを迎えます。ヨブは病気が治り、失った財産や子どもたちを再び得て、長生きしたというストーリーです。

私の解釈ですけれども、ヨブ記は結論として神の義というのは「分からない」ということを言っているのだと思います。人間の理解を超えたものが神であり、また神の力なのであるから、人間にはそれが悲惨な出来事であったり、苦難や試練として映ったとしても、それはどんな意味があるのかと意味づけることは人間には許されていない。それは神のみが知ることであって、人間はただその出来事を耐え忍ぶしかない。ユダヤ教・キリスト教的に言うと、ただ神を信じ、それを試練として耐え過ごしなさいということになります。結局は、様々な出来事の意味は「分からない」としか言いようがないということです。あの当時生きていたユダヤの人々であっても、自分たちに降りかかってくるこの様な災難の意味が分からない。分からないことは、神の領域のものとして我々は触れられないものである。というような論理をユダヤの人々は組み立てました。これはある意味で人間の謙虚な姿勢であると思います。

ただ理屈としてそういうものであると理解しても、例えば東日本大震災ですとか、飛行機事故だとか、自分の色んな病気だとか、社会環境によって苦しめられているとか、そういった出来事に巻き込まれている当事者からすると理屈は分かっても、「自分はなんでこんな苦しんでいるのか、誰か助けてくれないのか」という思いは止められないものです。

この様な当事者の叫びに真正面から向かい合ったユダヤ教のラビがいます。それがH.Sクシュナーという人です。岩波現代文庫から出ている『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記―』の著者です。私が読んだとき、その本の内容に衝撃を受けました。クシュナーの主張としては、神を赦しましょうと言っています。彼の考えによると、神とは全知全能ではないということです。自然災害とは自然が引き起こす出来事なのであって、それは神の管轄外だということです。彼は自然の出来事を神の出来事から切り離して考えています。自然が引き起こすことに善も悪もないのです。そして自然の出来事は神がコントロールしているものではない。だからこそ、神というのは不完全な存在なのだと。だからこそ、クシュナーは、私たちは神を赦しましょうと言っているのです。

その本にはアーチボルド・マクリーシュという詩人の『J.B』という作品が紹介されています。『J.B』では成功した実業家であるJ.Bという人物が、ある日あらゆるものを失うという悲惨な目に遭い、聖書のヨブ記と同じように三人の友人たちがJ.Bを慰めにやって来ます。そして三人目の友人はキリスト教の聖職者でした。J.Bはこれほどまでに過酷な目に遭わなければならない自分の罪とは何なのかといことを尋ねたところ、聖職者の友人はこう答えました。「それは単純なことなのです。あなたは人間として生まれました。あなたの過失?人の心は邪悪なのです。あなたが一体何をしたのかですって?人間の意志は邪悪なのです」と答えました。つまり、聖職者友人の答えはこうです。J.Bは彼が人間だから、人間というのは不完全であるのが当然で罪深いものだから罰を受けるのだと言ったのです。それに対してJ.Bは答えます。「あなたの慰めの言葉が、皆の中で一番残酷だ。…人間とは、処罰の対象となる罪人でしかないのか」。J.Bは人間を欠点あるものとして創造し、その欠点の故に処罰するようなキリスト教の神に対して、もはや慰めや助けを求めることはできません。

試練だ、苦難だという言葉はなんて残酷なんでしょう。今自分たちの身に起きている出来事が神が引き起こした正しい出来事なんだから、それにはちゃんとした意味があって、それを受け入れよということになります。でも実際、余命数ヶ月と宣告されたり、大切な子どもを亡くしたとかという当事者にその言葉(試練・苦難)・理屈を言うことは、なんと残酷なことでしょう。当事者は「これが神のなさる業なのか、試練にしては余りにも惨い」という悲痛な叫びを挙げることしかできません。ですから、全部の出来事を試練に置き換えるのは、余りにも理不尽過ぎると思います。


長い話になりましたので、今日はここまでに区切って載せます。

次回はこの質問の続きを載せたいと思います。

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