前回の質問6つ目の続きです。

まーやー:今、お話を伺ったんですけれども、クシュナーの本を私も読みました。牧師なり神父様なりが試練とか苦難を受け入れよ、というのは日常的に教会では言われている言葉です。でも何も助けにはならないんですね。ひたすら祈ってみたり、考えてみたり、聖書を読んでみたりしながら、その苦難を乗り越える、忘れるというようなクリスチャン生活を求められるわけです。

また牧師に相談すると、「あなたが悪いのではないか、あなたに原因があるのではないか」と言われ、はぐらかされているように感じます。それですと、実は神はいないんじゃないかと考えてしまいます。東日本大震災についてどういう意味があったかという声明の決議を教会はしました。誰も助けられないし、あなた自身が試練として耐えていきなさい、謙虚になりなさいということでは、何の救いにもなりません。

全知全能という神はいないんじゃないか、人間が作り上げた存在なんじゃないかと思うクリスチャンもいるのではないかなと思います。そこが一番クリスチャンに突きつけられるところだと思うんです。病気・事故・どうしようもない災害・努力ではどうにもならないこと、そういう時のクリスチャンの生き方、どうしていったらいいのか、どういう答えあるのかという辺りが伺いたいんですけれども。

Tama:そうですね。良い質問だとおもいます。ここからは完全に私の自論になります。これはあらゆる宗教に言えますが、特にキリスト教に焦点を絞るならば、いわゆる全知全能の神というイメージは人間が作り上げた像に過ぎません。もっと言うならば、特定の宗教が言っている神像(かみぞう)というのは人間が都合よく作り上げた姿でしかないんですね。ある種の人間の願望が反映された姿であるとも言えます。神というのは全知全能で我々のことを知ってくれていたらいいなあ、という思い。神は我々を憐れんでくださればいいなあ。恵みを与えてくれたらいいなあ。救ってくれたら嬉しいなあ。そういった願望が今のキリスト教の神像(かみぞう)を作ってきたと言ってもいいでしょう。

本当の神というのは人間が捉えることができない存在なんですね。枠に収めることも定義することもできない。定義したり、枠に入れた瞬間、それは神ではなくて人間の単なる像・イメージにしな過ぎなくなります。神がいるとしたら、何者にも捉えられないからこそ、神であると思います。もう一つですが、自然災害とか病気とかその他もろもろの災難というものに神が関与していると考えること自体が間違えだと思います。これらはあくまで自然現象であり、科学的なものによって説明されるべきもので、それが神の力によって引き起こされたとか、神が介入した、神の何らかの意図があるのだ、としてこじつけるのがそもそも間違いだと思います。自然現象というのは誰にでも起こりうることで、起こるか起こらないかは運でしかありません。徳を積んできたとか、信じているとか信じていないとか、そういうことは関係ありません。

私の考えですけれども、神がいるとするならば、それはビックバンが起こるきっかけを与えた存在が神のようなものと言えるのではないかと思います。量子力学でいうところの「ゆらぎ」こそが神かもしれません。ですから、私が言っている神というのは人格神ではないんですね。ユダヤ教・キリスト教の神というのは人格のあるものとして捉えています。それは間違いだと思います。神が人格を持っているというならば、人間と同じになってしまいます。人格を超越しているのが神なのではないでしょうか。人格を持っているということは神を人間というカテゴリーに入れようとすることです。

ビックバンの話しに戻ります。この世の出来事というのは全て因果律によって繋がっています。その因果の根源のことを哲学では不動の動者、第一動者、第一原因と言っています。つまり、今我々人間がいるのは哺乳類が進化したからであり、哺乳類がいるのはこの地球に生命が誕生したからであり、生命が誕生したのは地球があるからであり、地球があるのは太陽系が誕生したからであり、太陽系があるのは銀河系があるからであり、銀河ができたのは、一気に遡りますが、この宇宙がビックバンよって発生したからです。この様に因果を辿っていけば必ず全ての物事のスタート・始原・全ての原因の根源があるはずなんですね。それを科学的にいうとビックバンといいます。ちなみに科学の世界ではビックバンが発生した直後までしか遡れないんですね。ビックバン発生以前のことは分からない。だから、ある意味それ以前のことは神の領域と言えると思います。人間がうかがい知れない領域ですね

ビックバンのきっかけを起こした存在である神が、この宇宙の端っこにある地球に住む人間という生物に特別な愛とか恩寵を注いで気にかけてくださるということはあり得ません。というより神は宇宙を発生させるきっかけを作り、秩序を与えたということは言えますが、人間の歴史には一切介入していません。その様なことは神にとってもどうでもよいことだと思います。ですから、人間の歴史を意味づけるのは人間なんです。この世の中で起きる様々な出来事を起こすのは神ではありません。

神は平等です。何故なら、人間とかクリスチャンだからとかで恣意的に区別することはないからです。信じている人とか信じていない人とかも区別していません。だから、災害が起こって死ぬ人、死なない人の区別は何もありません。災害は単なる自然現象に過ぎませんし、そこに神の意図は全くありません。神は我々にまったく干渉していません。


 

この質問はとても難しいものでしたので、今回も内容を最後まで載せられませんでした。

次回が、「神はいるのか」という質問の結論になります。