前回の質問6つ目の続きの続きです。今回が、この質問の結論です。

まーやー:そうしますと、キリスト教に限っての話ですけれども、神は虚像である、人間が作り上げたものであるという認識に至ると私は思いました。

Tama:そういう認識でいいと思います。ただもう少し詳細に見ることもできます。私は「認識論」というものを唱えています。「認識論」について、ごく簡単に説明します。私たちが今生きていると感じているこの世界、もしくは目の前にあるボイスレコーダーとか机とかは、私という存在の外に、客観的に存在しているものだと思っているかもしれません。しかし、その見え方、私たちが今認識しているものは全て私自身の「認識」が「構成」し、作り出したものなんですね。私が見たり、聞いたり、触れたり、感じたりしている世界と、他の誰かが見たり、聞いたり、触れたり、感じたりしている世界は同じように思うかもしれませんが、実はそれぞれ違うということですね。

例えば、極端な話ですと、目の見えない方の世界と、目の見えている方の世界は違います。それが全てのことについて言えます。もっと言うならば、人間の見ている世界と鳥の見ている世界は違います。魚の見ている世界と昆虫の見ている世界も違います。それと同じです。私たちという存在の外には「外的存在」というものはあります。そうでないと、目の前にボイスレコーダーがあるという事実を認識することはそもそもできません。けれども、それをどう認識するかというのは人それぞれ違うんですね。

例えば、あるバラがあって、それを美しいと「認識」するか、しないかということも人それぞれですし、美しいと「認識」してもどこが美しいかということは違うかもしれません。バラの色合いが美しいと「認識」するのか、バラの形が美しいと「認識」するのか、人それぞれ違います。

まーやー:認識論についてざっと話してくださいましたが、そうしますと益々キリスト教の神というものが画一化されたものでなくても良いのではないかと思います。人それぞれで構わないですし、こうでなければならないという必然性もないと思います。キリスト教の神というものに対しての疑問が益々膨らむばかりになりました。

Tama:おっしゃる通りだと思います。キリスト教の神というのは画一化されており、理想化・理念化・一般化されているものなんですね。それ以外は神ではないとキリスト教は主張しています。しかし、それは神という存在のある側面でしかないか、もしくは自分たちが都合よく「構成」した、キリスト教の神という像にしか過ぎないと言うべきでしょう。

私の「認識論」においての神という存在は、人間が自分の「認識」のうちに「構成」した、作り出した存在であるとしています。ですから全くの虚像というよりは、神を神として「認識」するに至る、元となる要素というか、原存在というものがあります。この様な要素や原存在があるからこそ、人それぞれの違いはありますが、「これは神なんだ」というイメージが出来上がってくると思うんですね。

その要素とか原存在というのは人間の本能的な部分に関わってくる事柄だと思います。それは、自然に対する畏怖心、自分たちの力を超えた言いしれない力、食べ物が採れたり、火山が噴火したり、穀物が育ったり、飢饉が起きたりすることです。自分たちの力を超えた手の及ばない不思議な領域や力を神と感じたのでしょう。

今は人間の手の及ぶ領域がだんだん広がってきたので、日本人はそこまでではないと思いますが、西洋人だとこの世界すら人間がコントロールできると思っているから、自然の中に神を見出すということは少なくなってきたのではないかと思います。

神というのは人間の自然に対しての畏怖心・畏敬の念というものが根っこにあって、それが神という概念として「構成」されていったというのが、私の「認識論」における神観(かみかん)ですね。この様な神観(かみかん)の「構成」は、ありとあらゆる人に起きていることです。だからこそ、それぞれの宗教はそれぞれの神像(かみぞう)を作り上げたのだと思います。その宗教が「構成」していった中での「認識」が、その宗教の神観(かみかん)です。先ほどまーやーさんがおっしゃっていたように、神というのは人それぞれ違うし、それが本来の神の捉え方なのかなと思います。

最初に頂いた「神はいるのか、いないのか」という質問の結論ですけれども、人間に都合の良い神は存在しないと言えます。危機の時に助けてくれたり、憐れんでくれるような存在は人間が作り出した像であるということです。神が正しいとか、間違っているとかという議論はそもそも間違っています。以上がユダヤ教・キリスト教が未だ神義論を結論付けられない理由、屁理屈を捏ねるしかない様な理由です。

そして神がいるにしても、これも一つの理念化ですけれども、神は我々人間とは全く無関係なビックバンを引き起こした科学的、あるいは哲学的な意味での存在として捉えるべきだと思います。「認識論」的に言うと、神というのは人間がそれぞれの「認識」のなかで「構成」していった存在です。それぞの世界や世界の見え方・捉え方が違うように、それぞれの神観(かみかん)というのもあって然るべきだと思います。

まーやー:今日はありがとうございました。

Tama:ありがとうございました。

広告