前回の洗礼の質問の続きです。前回では、主に洗礼の歴史についてお話しました。今回は、洗礼の教会にお行ける現状です。


 

まーやー:今まで、洗礼の歴史や定義についてお話頂きました。実際に教会に通っている人からすると、洗礼を受けませんかと言われたとき、洗礼を気軽に受けてしまっていいのか、受けた後辞めたいと思った時にどうなってしまうのだろうという不安があるのですけれども、いかがでしょうか。

Tama:そうですね。洗礼を受けるということは、人生にとって非常に重大な意味があります。前回の質問の時に既に答えましたが、キリスト教の信仰を持つということ自体が、日本人としての意識を飛び越えることが必要であると言いました。洗礼を受けるということは、それ以上の意味を持つんですね。つまり、キリスト教の神を信じる、イエス・キリストの復活を信じるということ、そして教会のメンバーシップ・構成員になることを意味しています。自分が今までとは違うグループに属する、その様な属性を自分が持つということが、明確な形になる訳ですね。

ですから、例えば福音派とか保守的な教会ですと、洗礼を受けてクリスチャンになり、教会に繋がった人は、神社を参拝しない、お寺を詣でないということになります。それどころか、昔の過激なクリスチャンは神棚を壊したり、仏壇を燃やしたり、そういう極端な行動に走っていた人や時代もありました。典型的な日本人とは違う世界観、価値観を持つし、そういった団体に繋がっていくというのが洗礼を受けるということの現実ですね。

ですから、信仰心を持っているから気軽に受けようということならば、いったん立ち止まってよく考えた方がいいと思います。洗礼というのは人生においてもっと重い、非常に重大な影響を与える出来事なんだということをよく理解して頂きたいと思います。

クリスチャンの自己意識としては、洗礼を受けた自分たちというのは救われている者、救いに与っている者という意識があります。彼ら自身の口からは言わないと思いますが、ある意味の選民意識というのはあると思います。クリスチャンである自分たちと、ノンクリスチャンであるあなたたちは違うんですよ。私たちとあなたたちは違う存在なんですよ。という意識を持っています。

ですから、普通に話している中では分からないことですが、穏やかな人・謙虚な人に見えても、自分の方が特別な存在であると心の中では思っているクリスチャンはいます。そういうことが見えてしまうと、一般の人々からするとクリスチャンというのはけっこう傲慢なんだなと思ってしまいます。クリスチャンからすると洗礼というのは単なる入会・入信の儀式ではなく、救いそのものなんですね。だから洗礼を受けるということは、自分の為に天国が約束されることなんですね。

まーやーさんは先ほど、洗礼を受けたらその後、教会から離れることは出来ないのか、信仰を捨てることは出来ないのかという質問をされました。洗礼はまず人生で一回きりの出来事です。正当な教会ならば。

その後、信仰生活に躓いて教会から離れたいとか、信仰を捨てたいと思った人が洗礼の事実を破棄できるのかというと、それはできません。洗礼というのは人生で一度きりですし、それを取り消すこともできません。

だから、洗礼を受けることはよくよく考えた方がいいのです。しかし、逆に洗礼を受けたことによって、永続的に教会の縛りを受けるとか、信仰を捨てられないということではありません。洗礼を受けたという事実は消えないけれども、それによって教会とか信仰とかに永続的拘束されるということではありません。

まーやー:教会というところに実際にいますと、教会にいらした方、洗礼を受けたいと希望している人を何人も見てきました。その後、一生懸命奉仕されて、そして疲れてしまうという人も何人も見てきました。そうすると洗礼は受けたいけれども、その後を考えると非常に恐ろしいことのように感じているんですけれども。洗礼を今受けようとしている人へのアドバイスがありましたらお願いします。

Tama:これまで私が話してきたのは、あくまで教会の理想的な姿とか教えであるんですね。救われるというのは一般化・理念化されたものです。しかし、現実を見ると、教会では洗礼を授けるということは信徒の数を増やすというノルマを達成する手段でしかないんですね。教会は信徒の数を増やしたい。しかし、教会に来ている人全てが信徒ではないんですね。信徒の頭数に入れられるのは洗礼を受けた人だけなんですね。それ以外は皆お客様です。

ですから、教会に来ている人がいくら多くても、その中に、信じているけれども洗礼は受けていないという人ばかりでは、教会としてはノルマを達成できていない、信徒の人数が増えていないということになります。もっと生々しい話ですと、献金の義務があるのは信徒だけ、洗礼を受けた人だけなんですね。洗礼を受けていない人がいくら増えても、教会の収益には繋がらないんですね。ですから、そういった金銭が絡んでくる現実的な理由があります。信徒の数を増やし、献金の額を増やすために洗礼をおこなっています。教会はそういった人間的、組織的な思惑で動いています。少しでも救われていない人を救いたい、多くの人を救いたいといった高尚な思いで動いているのではなく、あくまで組織を拡大したい、お金をもっと集めたいという考えでしか動いていません。

純粋な思いで教会に入ってくる人、救いを求めて教会に来る人は沢山います。しかし、今言ったような事実は洗礼を受けた後、教会という組織の内部に入ってみないと分からないことです。非常にかわいそうな話ですが、純粋なものを求めて教会に来て洗礼を受けたけれども、教会の一員となって中を覗けるようになると、実際は教会というのはこの世的な原理でしか動いていないという事実を目の当たりにしてしまいます。そうすると、教会に対する幻滅に繋がるということですね。あるいは自分が今度はその人間的な組織の原理に同調して、その原理によって動いて、人を支配する側に回るかのどちらかです。

ですから、教会はありとあらゆる理屈をこねて、「信じていても洗礼を受けないと救われませんよ、意味がありませんよ」といって洗礼に結びつけようとします。しかし、私からすれば、キリスト教の救いを求めているのでしたら洗礼を受けてもいいと思いますが、キリスト教という信仰の枠にはまりたくない、信仰をもっているけれどももっと色々な幅をもって信じていきたい人であるならば洗礼を受ける必要はないと思います。

そしてもう一つ。理屈では確かに洗礼を受けた事実は消えませんが、かといって洗礼に一生縛られる必要もないのです。洗礼というものに自分を縛っていくのではなくて、そこから解放されていくということも必要なのではないかと思います。特に教会に愛想を尽かし、教会の教えを信じられなくなったならば、洗礼から自由になっても良いのではないかと思います。自由になったうえで新しい人生を一歩踏み出していく、新しい考えをもっていくということが必要なのではないかと思います。そうでないと、生涯に渡って洗礼というものに縛られてしまいます。

まーやー:ありがとうございました。教会というのがある種の商売であって、組織を維持していくために、教会員を増やしていく側面があることを知りました。ちょっと恐ろしいなと思います。ありがとうございました。

Tama:ありがとうございました。

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