山田勝美『全釈論語』、貝塚茂樹『論語』、加地伸行『論語増補版』に準拠。感想は私的解釈。

學而篇16

〈通釈〉

先生が言われた。「人が自分を認めてくれないのは一向に気にならないが、自分が人を理解していないのではないかと心配だ」。

〈要旨〉

孔子が対人関係において常に謙虚であろうと努力したこと、孔子の控えめな心持をよく示している。

〈感想〉

貝塚茂樹『論語』によると、「孔子の弟子には学問によって認められ、立身出世しよという人間が多かった」(P, 28)という。そんな弟子たちに向けられた言葉だと言えるでしょう。

アメリカの心理学者のアブラハム・マズローは人間の欲求を5段階・階層に分けて説明しました。第1段階:生理的欲求、第2段階:安全の欲求、第3段階:所属と愛の欲求、第4段階:承認(尊重)の欲求、第5段階が自己実現の欲求です。このうち第1~4段階は欠乏欲求と言います。欠乏欲求が満たされないとき、人間は様々な不安や緊張に晒されます。しかし、第5段階の自己実現の欲求は成長欲求と呼ばれ、欠乏欲求とは質的に異なるものです。自己実現の欲求は自分が持てる能力や最大限に発揮し、自己実現していく欲求です。自分が成り得る者に具体的になるということです。自己実現の階層にまで到達できる人はかなり少ないといえます。ちなみにマズローは晩年、自己実現の欲求の更に高次に自己超越の欲求があることを発見しました。ちなみにこの階層に到達できる人は人口の2%程度しかいません。

「人が自分を認めてくれないのは一向に気にならない」。普通の人間は、自分の能力や業績をきちんと認めてもらいたいと思います。当然の欲求です。自分の力量や成し遂げてきたことを正当に評価してもらいたいですし、もし不当に評価されることがあれば不満や怒りを感じます。自分という人間をきちんと承認してほしい、そして尊重してほしい、誰もが求めることです。そして大抵の場合その欲求は自分の望み通りには満たされません。自分がきちんと認められないと、自分を評価してくれない人物や組織、社会構造に不満や恨みを抱くか、諦めます。しかし、孔子はそのどちらでもありませんでした。「人が自分を認めてくれないのは一向に気にならない」とはとてつもない言葉です。他人が自分をどう見ていて、どう評価し、どの様に扱おうと、そんなことにはそもそも関心がないということです。むしろ、孔子からすれば、自分自身が他者をしっかりと理解し、認めることができているのかの方が遥かに大切な課題であると言っています。これは常人が至れる境地ではありません。マズローでいうところの、自己超越の階層に到達していない限り、この様な境地には至れません。

そしてまた、この孔子の言葉は君子、つまり仁の心を持った人の人間関係の在り方を説いたものだとも思います。君子は、自分が他者を正当に評価し、深いところにおいても理解することができるかどうかに関心があります。それは本当の意味で自分自身に向き合っている人の在り方であり、他者に思いを巡らし、真に他者に向かい合っている人の在り方です。

逆に他人の評価を気にする人は、自分のことを心配しているように見えますが、本当は他者の目だけしか気にしていないということです。実は、自分自身のこと、自分の内面の在り方などは余り関心がないのです。周囲における自分という存在の評価、外面的な自分の姿がどう映っているかが大切なのです。他者の目を気にしているということは、他者に向かい合っていることとは違います。それは表面的な関係でしかありません。他者の評価が気になるという思いは、自己中心性・エゴから生まれる思いです。誤解の無い様に言いますと、エゴに支配されてい生きることが、普通ですし、当然の生き方です。それが悪いということではありません。一般的な生き方としては間違ってきません。しかし、孔子の言う君子や仁者というような境地の人は自己中心性・エゴの支配から解放された生き方・在り方の人だということです。

本当の意味で自分が認められているかどうかに関心があるならば、自分自身に向き合うことになります。自分自身と向き合う時、周囲からどう映っているのかということから離れ、自分自身の在り方だけが焦点となります。その境地に至る時、周囲の評価から解放されるのです。それがこそが、自己中心性・エゴからの解放です。そして、自己中心性・エゴから解放された人は真の意味で他者にも向かい合うことができます。その人の能力・力量・才能・よさなどを公平無私に評価し、理解することができます。色眼鏡を掛けずにその人自身と向き合うことで、その人の力を発見するのです。それは孔子が説いていた君子の在り方だと思います。