質問8つ目

まーやー:Tama先生、今日もよろしくお願いします。前回は洗礼についてお話を伺いました。今日はそれに続きまして、聖餐式についてお話を伺いたいと思います。聖餐式というのは、礼拝の中でも重要な部分になっていると思います。

具体的には、パンとぶどう酒が出てきまして、それを私たちが頂くということだけなんですけれども。時々教会では聖餐式の時にミスが起きたりするんですね。そうしますと、そのミスを大変重大なものとして扱うということがあります。

それは、順番を間違えたり、ある時には牧師がジーパンで配餐するということもありました。それについて長老さんが大変怒ったということもありました。そういうことを考えますと、クリスチャンにとってこの聖餐式というのは大変大きなものであるということが伺えます。

また、他の宗教には、皆が一つのパンなり飲み物なりを食べるという儀式は私は聞いたことがないんですね。そうすると、聖餐式が他の宗教と比べて特異的なもののような気がしてなりません。ざっくばらんに、簡単に、分かりやすく説明して頂ければと思います。

Tama:聖餐とか聖餐式についてということですね。聖餐式というのは、確かにキリスト教に独自の儀式と言えると思います。特に、ぶどう酒をキリストの血、パンをキリストの体として頂くという宗教的な行為というのはキリスト教独自のものだと思います。むしろ、聖餐式という儀式が礼拝の中にあるということが、キリスト教とユダヤ教の明確な違いです。キリスト教をキリスト教としている儀式とも言えるでしょう。

ですから、昔から聖餐式というのは非常に神聖なものであるという扱いをされてきました。古代ではなく、いきなり日本での話になるわけですけれども、聖餐式を受ける時の格好というのは、昔ながらのプロテスタントのクリスチャンですと、スーツを着てその日の礼拝に行くというぐらい、特別な時、特別な日であるという認識で皆さん聖餐式に与っていました。大正とかもっと古い時代ですと、聖餐式のある日はモーニングを着て出席していたそうです。つまり、聖餐式は礼拝の中でも特別神聖なものであるという認識でした。

さて話は変わりますが、先ほど聖餐式はキリスト教独自のものであると言いました。ただ聖餐式の起源を見ると、ユダヤ教に遡ることができます。また、諸宗教にもみられる要素があります。

まず、一般的に言って、私たちが誰かと一緒に食事をする、皆で食べるという行為自体が人間関係を深める、共同体としての絆を強める、人と人を結びつける、人間関係を親密にするという意味を持っています。古代においては現代社会のように一人で食事をするということは無かったので、家族なり、一族なりが集まって、皆と一緒に囲んで食べるというのが普通でした。

ユダヤ教ですと、食事という行為を宗教的な儀式としての位置づけをしていきます。過ぎ越しの祭りの食事、ペサハと呼ばれているものがキリスト教の聖餐式のルーツと言われています。過ぎ越しの祭りというのは、出エジプトの出来事、そのきっかけとなったエジプト人たちに対する神の奇跡、神の過ぎ越しを記念してのお祭りです。

もうちょっと詳しく言いますと、過ぎ越しの祭りはイスラエル民族の発祥の祭りであり、エジプトで奴隷であった民が、神によって選び出されたモーセという指導者に導かれて、奴隷から自由の民として解放と独立を記念するお祭りです。

過ぎ越しの祭りは出エジプト記12章に根拠があります。その過ぎ越しの祭りの中に、ペサハと呼ばれる食事があります。ペサハでは家族で集まって、ハガダーと呼ばれる手順を踏んで食事をするという儀式があります。ペサハは、種なしパン(マッツァ)や苦菜などを一連の手順に従って、様々な祝祷や説明と共に食べ、出エジプトの物語を家族に語って聞かせます。この手順がハガダーと呼ばれるものです。

ダヴィンチの有名な作品に『最後の晩餐』がありますが、最後の晩餐というのはイエス・キリストが十字架に架かる前に取った最後の食事のことです。この最後の晩餐というのがそもそも過ぎ越しの食事・ペサハだったんですね。

その時の食事の仕方というのは、絵画ですと皆椅子に座って食事を取っていますが、当時のユダヤの食事形態ですと、横たわって、左肘を自分用のクッションについて、上半身を支えて、足を伸ばして食べるというのが正式な食事の仕方でした。だから、イエスが最後に食べた晩餐というのは、私たちのイメージとはだいぶ違うものでした。

キリスト教の聖餐式の根拠というのはいくつかあります。その一つがイエスの最後の晩餐です。聖書ですと、聖餐の設定の制定と呼ばれている箇所で、福音書ではマタイ26:26-28、マルコ14:22-25、ルカ22:15-20に書いてあり、パウロの書簡ですと、Ⅰコリント11:23-25に制定が書いてあります。

マタイに書いてあることを引き合いに出しますと、「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」(マタイ26:26-28)と書かれています。

最後の晩餐の場面やパウロの言葉は聖餐におけるイエスの十字架の意味を規定しています。つまり、聖餐はキリスト教の論理でいうところの、人類の罪の為にイエスが十字架に架かって死に、イエスの死によって人類の罪が贖われたという意味があります。聖餐における十字架の意味ですね。

もう一つの聖餐式の根拠は、十字架で死んだイエスが復活して弟子たちの前に姿を現して、一緒に食事した場面にあります。これは二つの場面があります。一つはエマオに向かう道で、復活したイエスが二人の弟子たちに会い、宿で食事を食べる場面、ルカ福音書24:13-35にあります。

二つ目は、ヨハネ福音書21:1-14にありますが、復活したイエスがティベリアス湖で漁をしていた弟子たちの前に現れて、パンと魚で一緒に食事をした場面があります。これらの二つの場面は、聖餐におけるイエスの復活の意味を規定しています。復活後のイエスとの食事が聖餐の意味の一つです。

復活後のイエスとの食事というのは、キリスト教の教えでいうところの終末の時の神の国での食事の席(宴会)を意味しています。つまり、聖餐とは終末の神の国での食事の席(宴会)の先取りだとキリスト教では考えられます。これらの聖書の中の言葉がキリスト教の聖餐式の根拠であり、ルーツです。つまり、聖餐式には、イエスの十字架による人類の罪の贖い・救いという意味と、終末におけるイエスとの神の国における食事の席の先取りという二つの意味があります。


 

今回はここまでです。聖餐の質問の答えをどこで区切ればいいのか難しいですがひとまずここまでとします。次回は、聖餐の解釈の違いを載せたいと思います。

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