聖餐式の質問の続きです。今回はキリスト教会の論理をそのまま紹介しているので、知らない人には分かりにくい話ですし、つまらないと思いますがご了承ください。


 

Tama:そして、聖餐式というのは実は、各教派によって解釈が異なっています。特にカトリックとプロテスタントでは聖餐式自体の意味付けが違います。

まず、カトリックは礼拝のことをミサといいますが、カトリックにとって聖餐式、聖体拝領のないミサはミサとは言えないんですね。ですからプロテスタントのように月に一回礼拝の中で聖餐式をしますということはカトリックにとってはあり得ません。聖餐式・カトリックの言葉でいうところの聖体拝領の位置づけはプロテスタントと全然違います。

カトリック教会とってミサとは即ち聖体拝領のことなんですね。そして、カトリック教会では、ミサ毎にイエスの十字架の出来事が起こっている、聖餐はイエスの十字架の出来事の再現であると理解されています。つまり、聖餐は神へのイエス・キリストの犠牲、イエス・キリストという捧げものと理解されています。一方プロテスタント教会では、聖餐とは神からの私たちへの恵み、神から私たちに与えられたもの、神から私たちへのサービス(奉仕)と理解されています。

聖餐式と十字架の結びつきですが、これは十字架の時に流されたキリストの血が聖餐式で頂くぶどう酒、十字架に架かったイエスの体が聖餐式で頂くパンと理解されています。ですから、十字架の出来事が私たちの救いであると、恵みであると確認し、それに与るということが聖餐式の意味ですね。

もっと体系立てて言いますと、洗礼と聖餐は教会では聖礼典と呼ばれています。聖礼典とは恵みの手段と言われています。恵みの手段というのは、神がそれを通して恵みを与えられる事柄です。つまり、神は洗礼と聖餐を通して、信徒に恵みを与えられるという理屈です。なかなか分かりにくい理論ですね。

聖礼典と呼ばれている洗礼と聖餐は「見える御言葉」と教会では言われています。不思議な言い方ですね。普通、御言葉というのは言葉ですから、言葉は見えませんね。(*御言葉というのは文字として読むのではなく、声として聞くものであったので、見えないという理解になっている)「見える御言葉」というのは、儀式を伴った形のある行為を「見える御言葉」と言いました。そして、「見える御言葉」であえる洗礼と聖餐を通して、罪の赦しと恵みの宣言、祝福、そしてキリスト教の理論ではキリストにある新しい命に与るということです。

聖餐式には大切な要素が二つあります。一つは、聖書の中にある御言葉による設定です。キリスト教会が聖書、そして使徒から受け継いでいる伝承された言葉、キリストの聖餐の設定のことばをまず唱えるということです。もう一つは、物質的な要素(物素と言われる)であるパンとぶどう酒が必要です。御言葉による設定と物質的な要素(物素)が聖餐式にとって欠かせない構成要素です。

これはキリスト教的な解釈になりますが、それをそのまま紹介します。聖餐式という儀式を通して、信仰者はイエスと結び付けられると考えられています。イエス・キリストの体を食することで、自分がキリストと一つになる、キリストを自分の中に取り込むということだと思います。ある種のカニバリズムのようにも見えますね。まあ、そう言い切ることは出来ませんが、そう考えるのも面白い視点だと思います。

クリスチャンにとっては聖餐は最高の宝であり、真に霊的な賜物であると理解されています。ただ聖餐の物質的な要素であるパンとぶどう酒をどう捉えるかということは各教派によって違います。

カトリックですと、物質的な要素は聖餐式において実体変化すると考えています。つまり、聖餐式に出てくるパンとぶどう酒が正にイエス・キリストの体と血に変化しているんだ、物質的に変化しているんだと、パンに見えるしぶどう酒に見えるけれどもこれは本当にイエス・キリストの体と血に変わったんだと主張しています。

もう一つはルター派に代表される考え方ですけれども、リアルプレゼンスや現在と呼ばれている理屈があります。これは、カトリックの実体変化よりも更に理解不能なのですが、パンとぶどう酒という物質的側面は変わらないけれども、御言葉による聖餐の設定によって、パンとぶどう酒にキリストが現れている。パンとぶどう酒という物質は変化しないけれども、パンとぶどう酒という物質にキリストの体と血の実体が現存するという理屈です。パンとぶどう酒は物質的に変化はしていないけれども、霊的にその中にキリストがおられる、それがリアルプレゼンスであるという解釈をしています。リアルプレゼンス・現在とは論理的によく分からない、矛盾している理屈ですけれども、そう主張しています。

矛盾があるということは、その教えが屁理屈でしなく、信用ならないということです。しかし、この様な矛盾した理屈であっても、「信仰によって」という言葉を出せば、教会的には合理化しまうのです。信仰という色眼鏡を掛けて見れば、何でも都合のよいものになってしまいます。非常に残念です。

そしてもう一つありまして、改革派教会は象徴説を唱えています。これは理性的に受け止めやすいものです。パンとぶどう酒はキリストの体および血ではなく、救いの出来事の象徴であるとして、それを思い起こすものであると理解されています。つまり、象徴説によると、パンとぶどう酒はただの象徴であるということです。

この様な解釈の違いはありますけれども、聖餐というのは、洗礼によってクリスチャンとなった者、即ち救われた者と神との喜びの交わりであり、イエス・キリストとの親密な食卓の交わりであると理解されています。

つまり、キリスト者にとって何故聖餐式がこれだけ大事なのかというと、聖餐はキリスト者にとっての霊的な糧なんですね。聖餐がキリスト者の信仰生活を支える糧になっているということです。また、聖餐を通して神は恵みを与えられるから、キリスト者にとっては欠かせないものであると理解されています。


 

今回はここまでです。次回は結論とキリスト教会の聖礼典の理屈と矛盾を指摘する部分です。

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