2.政府側の事情

①    明治の日本は、維新以来、欧米の文化・技術を取り入れることで急速に発展していった。列強に追いつけという精神で必死であった。それによって、日本の近代国家体制、近代社会の体制がつくられていった。しかし、重要なことが残されていた。それは中身である。近代国家体制の中身、アイデンティティ、つまり、天皇中心とした国家体制を更に強固なものにする必要があった。

②    また同時に、明治政府は宗教の扱い方、国としての管理の仕方を長年模索してきた。1868年から1872年は祭政一致の時代があり、次いで1872年から1882年まで政教一致があり、公認教制度が1882年以降生まれたが、1889年には政教分離が叫ばれた。これだけ見ても、明治政府は宗教を国家にどう位置付ければよいのか、迷っていた、試行錯誤していたことがよく分かる。

③    時代はやや先に進むが、日露戦争(1904-5年)後、日本は社会秩序・社会道徳の混乱が起こる。戦争後の国力の疲弊などの影響は想像以上に大きかった。戦争に勝利したものの、講和の内容は満足のいくものではなく、賠償金が取れないということが一番大きかった。国民の多くはロシアに勝利したものの日本もその国力が戦争により疲弊しきっていたという実情を知らなかった。そのため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。結果、戒厳令が敷かれることになり、時の桂内閣は退陣に追い込まれた。

④    また、社会秩序の混乱は日露戦争だけが原因ではなかった。文明開化以降、急速に産業が発達していった。この産業の発達こそが、日本の近代化、富国強兵への大きな原動力になった。しかし、その歪みが出て来た。それが足尾鉱毒事件やイタイイタイ病に代表される公害である。大企業の発展による環境汚染が起きたのである。田中正造は「環境汚染によって社会構造と社会の道徳制度が崩壊されたと唱えた」 とある。つまり、国を豊かにするために産業が発展したはずであったが、実はその産業が国民を傷つけ、苦しめることをしてしまったのである。自分で自分の首を絞めてしまったのである。

⑤    この様な社会秩序の混乱において天皇と国民の関係も変化せざるを得なかった。当初天皇と国民は、君主と臣民の関係であった。しかし、社会的な混乱にある中、「君臣の義」という天皇と国民の関係も徐々に崩壊していった。

⑥    そして、この様な社会状況から、第二維新が叫ばれるようになった。明治維新は、欧米の文化・技術・学問を取り入れ、政治・法律・制度などを改革していった。その改革は目覚ましい発展を明治にもたらした。しかし、それは物質的な側面での改革と発展であった。小崎弘道(こざき ひろみち)は「明治維新は主として政治、法律、文物、制度等、有形の維新たるに止まって居る…更に必要なるは精神上の維新である。即ち宗教道徳の新年理想の維新である」。真の維新を完成させるには精神上の維新が必要であった。この精神上の改革は第二維新と呼ばれている。そして、この第二維新においてこそ、宗教の力が求められた。

⑦    さてここで床次竹次郎という人物が出てくる。彼は最終的に原敬内閣で内務大臣にまで上り詰める。床次竹次郎(とこなみたけじろう)は1906年に内務省地方局長に任ぜられ、1909年に地方制度観察の為に欧米諸国を巡り、帰国後『欧米小感』を執筆した。床次はこの欧米での経験から、宗教の社会的な影響力の高さを知り、精神上の第二維新を主張した。『欧米小感』は非常に鋭い目線で当時の社会を分析しつつ、宗教による道徳改革の必要性を訴えている。床次は明治維新を振り返り「維新以来、時世の変革が余りに急激であったのと、科学上の知識が殊更(ことさら)に長足(ちょうそく)の進歩をした為、宗教其(そ)のものまでが、漸次(ぜんじ)に是(これ)まで持つて居た所の感化力を失うようになった」(1) としている。

⑧    また、当時の社会状況を見つめながら「信念もない、信仰もない。仏のなければ神もない。随って人の観えない所ならば、何をしても畏るる所がない。法の禁じない所ならば、どんな事もしてもよい」(2)、そんな世の中になってしまったと語っている。そこで、床次は次のように確信するに至った。「第二維新の元気を引き起こして、根底強き文明を成就せねばなるまい。将来国民の元気を作興(さっこう)し、堅実な気風を作ろうというには、どうしても一般に信念の養成に待つより外は、致し方があるまい」(3)。

⑨    B 政府は宗教などによる徳育、道徳育成を通して国民教育を図り、「良き国民」 を育成しようとした。


(1) 国府種徳編、床次竹次郎述『欧米小感』至誠堂書店、明治13年、P, 24

(2) 前掲書、P, 26

(3) 前掲書、P, 33

広告