世の中には、いわゆる「これがベターだ」と考えられる標準的な生き方があります。
日本で言うと、受験戦争に勝ち抜いて、良い大学に入って、良い就職先に就いて、公務員なりサラリーマンになって、結婚し、子どもができ、子どもたちが自立したら夫婦でためた貯蓄と年金で老後をゆっくり過ごす。
これがベターな生き方と呼ばれるものです。
それは、暗黙の了解の上で成り立っているものです。
この様な生き方をしなければならないという決まりはありません。
それ以外の生き方から大きく外れる時、大抵喜ばれません。
私たちはこの様な標準的な生き方は頭のどこかに刻まれています。そう学校においても家庭においても教育されてきたからです。
学校、社会、両親などは子どもたちがこの様な標準的な生き方のレールに乗って進むように大変な努力をします。そして、子どもたちにはそれ以外の生き方以外は価値のないものであるかのように教え込みます。まるで、社会全体がその様なレールに乗って動いているように洗脳します。
これは子どもたちに対する最悪の罪の一つです。
人生にはあらゆる可能性があります。そして、人間にはその可能性を選択する権利があり、多様な生き方を選ぶことが許されているのです。
ある特定の生き方しかないと植え付けたり、強制したりすることは、人生の価値を否定することと同じです。それは人間性に対する冒涜ともいえることです。
人は自分の力で自らの人生を選択する権利が与えられています。
大学に行くことが全てではありません、サラリーマンになることが全てでも、結婚することが全てでもありません。子どもがいることが当たり前のことでもありません。
標準的な生き方が全てではないのです。それは多様な生き方のほんの一例に過ぎません。標準的な生き方から外れたとしても何も問題ありません。
また、人生の楽しみをどう過ごすかも個人の自由です。ある人はスポーツ、ある人はお酒、ある人は読書、ある人は音楽や食事・・・など人によってそれぞれの人生の楽しみを持っています。
どの様な楽しみを持つのかは、個人の自由です。公共の福祉に反しない限り、そして節度を守る限りをどのような楽しみを持ってもそれはあなたの自由なのです。それは人から勧められることはあっても強制されることではありません。
どの様の生き方が最も良いのか。それは自分が満足できる生き方と言う以外ないでしょう。何をもって満足とするのかもあなた自身です。楽でゆるく生きるのも、激しく短く生きるのも、あるいは厳しく険しく生きるのも自分自身です。他人や世間からの声に耳を傾けるのではなく、自分自身に耳を傾けてください。