山田勝美『全釈論語』、貝塚茂樹『論語』、加地伸行『論語増補版』に準拠。感想は私的解釈。

為政篇3

〈通釈〉

先生が言われた。行政を法制のみに依ったり、治安に刑罰のみを用いたりするようでは、民はその法制や刑罰に引っかかりさえしなければ何をしても大丈夫だとして、そのように振舞ってなんの恥ずるところもない。しかし、その逆に行政を道徳に基づき、治安に世の規範を第一とすれば、心から不善を恥じて正しくなる。

〈感想〉

人間というものは、自然的態度では絶えず自己や自分の集団の利益を追求する生物である。何のルールもなしで野放しにしておくならば、ホッブズが提議したように万人の万人に対する闘争になってしまうだろう。つまり、各々が己の利益を求めようとして行動する。その結果、他者の利益を侵害することも厭わないだろう。しかし、この状態が恒常的に続いたならば、人間という種自体が自滅するという不利益を被ることになってしまう。これは避けなればならない。

その回避方法として、法を生み出した。法によって利益追求に限界・制限を設けたのである。つまり、各々の利益追求の権利は無限ではなく、他者の権利を侵害しない程度において認められるというものとして定められたのである。この法という発明は劇的な効果を発揮した。法を犯した者に対しては、懲罰と利益侵害の補償という二重の意味合いにおいて刑罰が執行された。

「他者の利益を侵害したならば、自分の身に不利益が降りかかる。それは困る。ならば、法の定める範囲で、ほどほどのことをしよう」。こうして、法による秩序が成り立っている。しかし、法は大きな弱点がある。法は、あらかじめ定めた事柄しか裁くことが出来ない。定められた事柄以外の事象で他者に不利益をもたらしても、法に引っかからない限り罪ではありえない。ある事柄に対して後付けで「あれは罪だったのだ」と法律を後から作ることは法の精神に反している。遡及法は許されない概念である。

法は、極めて優秀な秩序をもたらす道具だが、人間の全ての行動をカバーできるほど柔軟でも完全でもない。必ず抜け穴はある。そして、人間の利益追求の欲望は無限である。つまるところ、法に引っかからないように利益を追求するだけである。それにより、他者の利益を侵害しようとも、その行為は合法であるのだから、何ら咎められる筋合いはない。法を厳しくすればするほど、締め付けを厳しくすればするほど、人の欲望は膨れ上がり、恥は失われていく。これは法だけに頼る統治の限界である。

この限界を孔子は見抜いていた。法によって、非人格的に人間を縛り上げても、真の秩序はもたらされない。人間の本質に対する洞察が極めて優れている。社会に真の秩序をもたらすのは、道徳と礼であると孔子は考えていた。刑罰の恐ろしさを振り上げて行動を抑制するのではなく、道徳を教育し、民を感化することによって、自発的に規範を守るように促すことが、真の秩序に繋がると孔子は信じていたのだろう。民は刑罰への恐怖によって行動を抑えるのではなく、集団規範を汚すことへの恥によって行動を慎むようになる。刑罰の恐怖による個人の利益を抑圧することから生まれる消極的な秩序ではなく、道徳によって集団全体でよりよい善を求めようとすることから生まれる積極的な秩序を孔子は道徳と礼に見出していたのだろう。

孔子のこの様な精神が現代社会にこそ必要だと感じる。