キリスト教が世界各国の植民地支配の前段階で宣教されていったのには理由がある。それはキリスト教会の教えが服従の構造を生み出してくれるからである。

キリスト教は神、キリストへの服従、愛、受容(または寛容)、忍耐を教える。これら一つ一つは素晴らしい道徳であり、これらを守り生活すればより豊かな人生を歩めるだろう。しかし、これは個人レベルの話しである。

民族とか国家という大きな枠組みでキリスト教の教えを受け入れてしまったならば、それは悲劇をもたらすことになる。

支配者にとって被支配者はなるべく自分たちに従順であることが望ましい。その次に望ましいのは不満を持ちながらもそれを爆発させずに反抗しない被支配者である。

キリスト教の教えは被支配者に服従の構造を与えてくれる。たとえ、自分たちの支配者が自分たちに不利益な行いをしようと、愛と受容と忍耐を教え込まれた被支配者たちは、支配者たちに抵抗することは無い。それは、抵抗することは教会が教える愛の精神に反するからである。殴られたら殴り返すのではなく、ただ無抵抗に耐えるのが教会が教える愛と受容と忍耐である。

また、この世での不満があっても、キリスト教は御国=天国という次の理想的な世界を教えてくれる。この世が不条理であっても、死んだ後は何の不満もない理想的な世界が待っている。ならば、この世では不条理を耐え忍ぼう。生きている限り我慢しよう。その様な精神を生み出してくれる。キリスト教の教えは御国=天国という来世の餌をぶら下げることで、被支配者の現世での不満を抑え込む構造を持っている。

もう一つ、キリスト教は人間を超えた、神やキリストという存在を教える。そのような教えを受け入れた信徒たちからすれば、この世で不条理な抑圧を受けても、その様な存在がいつかは自分たちを救ってくれるという淡い期待を持つ。これは心の治療薬であり、多少なりとも不満を和らげる効果がある。

これらの要素が絡まり、キリスト教は被支配者に服従の構造をもたらし、支配者たちにとって都合のよい「良い被支配者」を作り出してくれるのである。

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