私が教会に仕えていたころ、イエス・キリストは神だと教えられていた。そもそもキリストとは救い主という意味である。イエスは救い主であると宣言することが、イエス・キリストである。

これはキリスト教の根幹をなす教えである。人間であるはずのイエスという男が神であると主張するところにキリスト教の特色がある。その主張抜きにはキリスト教の教えは全てが崩壊する。あの十字架上で死んだ男が実は神であった。神が私たちの救いのために死んだのだ。ここにキリスト教の核心がある。しかし、人間が神であるということは初めから無理のある論理である。キリスト教は、イエスは神であり同時に人間であると主張している。半人半神であるということでもない。100%神であり、100%人間であると主張している。異なる属性が同時に両立することありえない。論理的に破綻している。キリスト教の教義は決定的な矛盾を抱えていると言わざるを得ない。

しかし、キリスト教はそのことを認めるわけにはいかない。イエスが神でなかったら、十字架上で死んだのは一人の逆説的反抗者の死でしかなくなってしまう。そうなるとイエスの死は人類の救いでもなんでもなくなってしまう。神が人類の罪の為に死んだという論理の中でこそキリスト教の救いは成立するのであり、それがただの一人の男の死でしかなかったならば、無意味であり、何の意味もなさなくなってしまう。キリスト教の教え全体が根底から覆されてしまうからである。だからこそ、キリスト教はイエスの人性・神性の論理的な破綻・矛盾を認めることは絶対ない。

しかし、私は十字架上で死んだイエスが一人のただの男であっても、それが無意味ではなかったと考えている。キリスト教の教えるところの様に救いに繋がらないことは全て無意味であるとは思わない。イエスの十字架の死は、一つの時代を必死に生き抜いた一人の男の生き様を表していると思う。決してその死が人間の死であったとしても無意味であるとは思わない。

イエスという男はどんな人間だったのだろうか。それを正確に知るすべはほとんどない。聖書の福音書にあるイエスの言葉から、だいたいのイメージ捉えられるがそれは完全な情報ではない。福音書はイエスの言葉を自分たちの宣教用に加工・編集してあるので、福音書にあるイエスの言葉はそのままイエス本人の言葉であるといえない。むしろ、多くの場合手が加えられていると考えるべきである。学問的に人間イエスの言葉を再構築する言葉は徹底的な研究をしてもなお困難である。

なので私は私の中のイエスという男のイメージを語りたい。

イエスは石大工の父ヨセフの長男であった。父ヨセフが割合と早くに亡くなったので、イエスが石大工の跡を継ぎ一家の大黒柱として家庭を支えていた。

イエスは親方気質の男であったのではないかと思う。大工仲間をまとめるのに必要だけだったのではなく、おそらく彼自身の天性の気質だったと思われる。細かいことを気にせず、豪快で、義理堅く、人情に厚い。仲間を大切にする。そして非常に懐の深い人間であったと考えられる。イエスが当時罪人と同じような扱いを受けていた取税人や娼婦、重い皮膚病の人々を他の人々と区別することなく一緒に食事をしていたということがイエスの懐深さ物語っている。当時はそんなことをすれば自分も罪人扱いされてしまったので、普通の人は絶対彼らと一緒に食事を取ることは無かった。しかし、イエスはそんな彼らを「人間」という大きな枠組みで捉えて受けて入れていたのだろう。

一方でイエスはいわゆる上流階級の人々と接する時にも物怖じはしなかった。おもねることは決してせず、堂々と接し、自分の主張は一歩も引かずに主張した。イエスは貴賎の区別なく人々と接していたのは親方気質であったことと、深い人間観を持っていたからであろう。人間とは何ぞや、と考え抜いた人であった。人間それ自体が価値のある存在で、そこに貴賎の区別をつける必要は全くないという価値観を持っていた。

また、大酒のみの大喰らいで、沢山お酒を飲んでよく食べる人であったと言われている。そのイエスの姿を見た律法学者はイエスを非難している。

イエスは例え話の天才であった。律法学者との問答は直接の言葉の対決ではなく、アドリブで話を作って、例え話でもって答えた。しかも、その返しの例え話は相手との問答の核心を突いている。例え話の内容も抽象的なものではなく当時の農民などが理解できる日常的な場面を用いて話をした。それにより、多くの人がイエスの話を理解することが出来た。難しい教義の話をこねくり回して議論から逃げることなどせず、当時の人々の生活の課題と真正面から取り組んだ。これらのことをアドリブでできるのだから、とてつもなく頭の回転が速く、創造力もあり、社会に対する観察力もあった。正に天才そのものである。

イエスは石大工で一生を終える器ではなかった。世の中を見まわした時に見えてくる不条理に愚痴を言って我慢するのではなく、不条理な社会そのものに立ち向かった。社会の構造に見える矛盾を指摘し、変革の為に戦った。しかし、決して武力に訴えることもなく、体制を崩壊させたり、転覆させようともしなかった。その意味で、イエスは革命家でもない。イエスが目指したのは、人々の意識を変えることであった。社会の矛盾や不条理に自ら気付き、自ら変わっていこうとする。その様な意識に人々を変えようとした。その意味で、イエスは政治家でもなかった。イエスは政治的な変革は一切考えていなかった。イエスは当時の社会構造によって覆い隠されていた、人間本来の姿、人間性の回復を目指した逆説的反抗者だったと言えるだろう。人間はその存在自体で価値がある尊い存在である。生まれの出自や職業の違いや障害や病気の有無などによって人間の価値が区別されることは無い。人間は本来もっと自由なのだ。そのことをイエスは人々に訴え続けた。イエスは人間の尊厳・価値・あるべき姿を教え、それに人々が気付いて、自ら変わっていくこと願っていた。それがイエスの教えと呼ばれるようになる。イエスは政治を変えようとしたのではなく、「人間」(人々の心と意識)を変えようとしたのである。イエスが他の指導者たちと一線を画すると当時の人々から思われていたのは、教義を教えて人々を納得されるのではなく、正面から社会と人々と「人間」に向き合いながら教えていたからであろう。「人間」自身が変わるということは、人々の心が変わるということである。心が変わるということは結果として、社会や政治が変わり、良い世界がもたらされるだろう。この様なとてつもない理想をイエスは抱えて、それを実践して生きていた人物である。人類史上でも「人間」そのものを変えようとしたのは、ブッダ、孔子、イエス、ムハンマドぐらいだろう。

イエスはカリスマや宗教的な天才という言葉では言い表せない人物である。とてつもない存在、まさに神と言えるぐらい、神と呼びたくなるぐらいのとてつもない男であったのだろう。まさに救世主である。一介の大工に過ぎなかった男に国中が熱狂したのもうなずける。また、イエスの異様な天才性に当局やイスラエルの指導者たちは恐怖を感じた。イエスは政治的な要求は一切していないが、指導者たちからすれば多くの群衆を率いるイエスを見て国家転覆の恐れを感じたのも分かる。また、直にイエスと問答した指導者たちはイエスのとてつもない天才性を肌で感じ、国家転覆も実現可能であると考えただろう。イエスとしては国家をどうこうするということ自体に興味を持っていなかったが、彼の神といえるほどの天才的な才能は政治的指導者たちに恐怖を抱かせた。国民がイエスを王にしようと一斉に蜂起し、革命を起こしたならば、それを鎮圧するにはローマ軍に力を借りなければならないほどの事態になるだろう。自分たちの手に負えない事態になる。当時イスラエルはローマ帝国の属国であった。国家の主権と自治を考えた時、帝国の介入は極力避けたい。イエスはイスラエルという国家の手に余る存在になった。故に、イスラエルの指導部はイエスの殺害を決断した。それがイエスの十字架刑である。十字架刑は国家反逆罪を犯した者への処刑である。つまり、当局からすればイエスはイスラエルという国家を脅かす反逆者と判断されたのである。

イエスは「人間」(人の心の在り方や意識)を変えようとした。しかし、この超人的で卓越した目的は誰にも理解されなかった。イエスを処刑した人々はイエスを単なる政治的革命家としか認識していなかったし、弟子たちですら政治的視点あるいは宗教的視点からしかイエスという男を見ることが出来なかった。イエスは天才過ぎ為に誰にもその志を理解されなかった孤独な男でもあった。それは悲劇でしかない。イエスが志したものは、政治的支配者になろうとか、宗教的指導者になるとか、ましてや自分が神になるなどというものではなかった。彼には政治とか宗教といった狭い範囲のことには囚われていなかった。イエスが目指したのは「人間」を変えることであった。人間の良さ・悪さ・弱さ・強さを直視することによって、人間の真の価値や存在自体尊さを見出し、人間性を回復、解放を目的としていた。人間の心の在り方や意識を変えるというとてつもない理想を掲げて生きていた男であった。しかし、歴史の悲劇か、その天才の理想を理解できる人間はいなかった。

イエスが十字架刑で処刑されたことに、人々は大きな失望と喪失感を味わった。あの神のような男が死んでしまった。もう社会の変革はないだろう。あれほどの人物の後継者を務められる人物もいまい。イエスの活動を受け継ぐ者はいなかった。いや、そんな人物は存在しない。人々に残された方法はただ一つである。神のような男であったイエスを、本当の神にするしかない。そのためには、人間を超えた出来事が必要である。それが復活である。人間は死んだら終わりである。しかし、イエスは復活した。復活は人間業ではない。ならば、イエスは人間でありながら、神であったのだという話しになる。これが神としてのイエス、イエス・キリストの誕生である。そして、神としてのイエスには、神としての相応しい生誕伝説=クリスマスが必要になった。

イエスの活動を引き継ぐ者がいない今、イエスを神として祭り上げ、宗教として立ち上げようとした。それがキリスト教の原型である。しかし、イエスが目指していたのは新しい宗教を作り上げることではなかった。イエスが目指していたのは、「人間」自身を変えることであった。イエスが十字架上で死んだ瞬間から、イエスの理想を受け継ぐ者はいなくなった。その後のキリスト教の歩みを見れば分かることであるが、キリスト教はイエスの活動とは全く異なる方向へと進み現在へと至っている。

 

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