祈りとは、自分を超えた超自然的存在に向かって、語り掛け、願うことである。
人間が祈るのは、独力ではどうしようもない状況、手が届かない事柄に対して、超自然的存在の力を借りて事態を良い方向にもっていきたいという願いがあるからである。
例えば、宝くじで一等が当たるように祈る。宝くじが当たるか当たらないかは完全に確率の問題である。我々が何かを働きかけて変化することは無い。つまり、私たちの手の届かない事柄である。しかし、是非とも一等が当たってほしい。自分ではどうにもできないことに属しているが、自分に有利に事柄が傾いてほしい。ならば、自分の力を超えている超自然的存在や超自然的力を頼ることで、何か特別な力がかかり、特別な変化がもたらされるかもしれない。その様な願望が超自然的存在に対する祈りとなるのである。
逆に、テストで60点以上取ることに祈る必要性はほとんどない。何故なら、60点以上取れるかどうかは自分の努力次第によって決定するからである。60点という結果を手に入れられるかどうかは、私たちの行動によって決めることが出来る。自分の力で何とかできることに対しては祈る必要性はない。しかし、例えば、大学受験などの場合は話が違うだろう。大勢の人が狭き門に向かって競争する場合、自分が受かるかどうかは自分の努力だけでは決定できない。少なくとも、これから受験を受ける当事者たちにとってはそう感じられるだろう。自分がどれだけ努力しても、結果は発表されるその時までは分からない。自信はあったとしても安心はできないのではないだろうか。その様な状況の時は、合否の結果は自分の手の届かないところにあると言えるだろう。自分の力だけではどうにもならない事柄と言える。その場合は、やはり超自然的存在に祈る、思いを聞き届けてもらって状況が変化するように願うという心理状態が生まれるのは自然のことである。
これは、現世利益を求めない宗教にも言えるだろう。例えば、自分を救ってくださいとか、自分の罪を赦してくださいとかのような事柄にも当てはまる。そもそも、救うとか罪を赦すということは、人間が出来るものではない。そのような概念は、そもそも神しか成し遂げられないとして考え出された概念である。このような救いとか罪の赦しなども、人間がどうにかできる事柄ではない。人間の手の及ばない事柄である。だからこそ、その様な宗教を信じる人々は、神に向かって祈るしかないのである。
これらの話しは、超自然的存在や神がいるという前提で機能する話である。その様な特別な力を持ち、特別な変化をもたらす存在がいるならば祈ることは合理的な行為である。しかし、そのような存在がいないならば、人間は何のために祈るのだろうか。その場合は、祈りとは合理的な行為とは言えない。
私自身、昔は毎日、朝・昼・夜、食事の前と祈っていた。その時の自分自身の心はどういったものであったのか。祈る時は、心を落ち着かせ、周りの情報をシャットアウトし、ただ心の中で一点を見ようとしていた。意識を深いところに沈めていった。そうして研ぎ澄まされた感覚は、超自然的存在・神と呼ばれるものとの繋がる通路だと考えていた。祈りは自分を超えた存在と対話することなのであるから、自分の外側に向かって出ていくことだと思っていた。しかし、今振り返ってみると、あの時の祈りに向かう心の動きというのは、自分自身の内側に向かっていたのではないかと感じている。外に向かって出ていくのではなく、自分の内側に向かって、深く深く沈み込んでいく。普段の生活では意識しない領域に向かって、自分自身を沈めていく。今思えば、祈りとは自分の無意識に向かって語り掛ける心の動きなのだろう。無我の境地に至るとは、無意識の自分へと至ることだろう。当時、神だと思って語り掛けていた存在は、最も深淵にある自分自身であった。深く祈ったことのある人なら誰しも経験があると思うが、本当に深い祈りの状態に達した時は、「ここだ」と感じるある特定の領域が存在する。その領域に足を踏み入れた時は、特別の感覚がある。持続的な集中力と、自我が溶けるような感覚、そして自分以外が存在しない感覚がもたらされる。昔は、それが神と相対しているときの感覚だと考えていたが、最も深いところにいる自分自身と対面していたのだと思う。そう考えれば、神とか超自然的存在というのは単なる想像の産物と簡単に片づけることは出来ない。神や超自然的存在というのは人間の無意識自体や無意識下で生み出された願望と言えるのではないか。
人間は皆、心の中で神的な存在を信じたり、願ったりする部分がある。それは人類の普遍的な心の在り方である。それは、私たち自身の無意識や自分自身なのかもしれない。だからこそ、人類普遍なのではないだろうか。