1.瞑想についての理解
瞑想と聞くと、小難しくて、宗教っぽくて、特殊な人にしかできない行為だと思いがちである。確かに、瞑想を習得するには訓練が必要である。一朝一夕には習得できるものではない。しかし、瞑想自体は訓練さえ続ければ誰にでも出来る行為である。また、必ずしも宗教的なものとは限らない。また、意外に知られていないが、瞑想は優れたストレス解消法であり、精神的安定をもたらす技術でもある。瞑想とは、何か難しい真理を精神世界に行って探るだけの行為ではない。
ここで紹介する瞑想とは宗教的な内容ではなく、誰しもができる自分自身の心との向き合い方・技術、メンタルテクニックと理解してほしい。
瞑想にはいくつかの種類があるが、ここで紹介するのは生活に役に立つ、ストレス解消法としての瞑想法である。私たちは日々の生活の中で自覚的にしろ、無自覚的にしろ、様々なストレスに晒されている。そしてストレスが蓄積すると生活のあらゆる場面で支障が出てくる。思考力の低下、集中力の低下、記憶力の低下、ストレス耐性自体の低下、免疫力低下、自尊心の低下などが挙げられる。また、人間にはストレスを溜められる限界がある。その限界付近までストレスを溜めこんでいる状態だと、様々な心身症、特に不眠に陥る。そして、ストレスが自分の器の限界を超えてしまうと、精神的な病気を引き起こしてしまう。ストレス耐性のレベルは人によって異なる。強い人もいれば、弱い人もいる。自分のストレスを溜められる器の大きさをまずは知ることが大切である。ストレスに強い人は多少ため込んで、一気に外に出すことも可能であるが、弱い人はストレス解消を頻繁に行うべきである。その様な人はストレスを限界付近にまで溜め込むこと自体が精神的な不安定をもたらすことになってしまう。
瞑想には目的意識が必要である。ただ何となくの瞑想は何の効果もない。それは瞑想をしているつもりのだけで、単に何も考えていないだけである。瞑想は背筋を伸ばして、目をつぶって、手を組むだけで出来ることではない。ここでの瞑想は自分が意識的、無意識的に抱えているストレス、不安、ネガティブなエネルギーと向き合い、逃げるのではなく受け入れることでそれらの負の要素を自分から解放していくという目的がある。これらのプロセスを通すことで、ストレス解消を行う。人はストレスや不安、嫌な思い出などを無意識へと抑圧し、抑圧することで逃げることができる。抑圧はストレスを自分の中の片隅に追いやるだけで、自分の中には厳然と存在している。自分の中からは消えていないのである。残ったストレスは溜め込むとネガティブなエネルギー(心理学的な意味として)として変化し、身体的・精神的に自分自身を抑える重りになる。多くのストレスを抱えている人は、自尊心が低く、自分の力を「こんなものだろう」と考えてしまっている。しかし、それは本来の自分の力ではないことに気が付いてほしい。ストレスやネガティブなエネルギーによって自分自身の本来の力を大きく抑え込まれているだけである。
瞑想を通して、自分自身と向き合うことによって、自分がこんなにネガティブな思考や不安や苦痛やストレスを抱え込んでいたのかと驚愕すると同時に知ることになる。また、瞑想状態を維持できれば、自分の中に様々な考えが浮かんでは消え、収拾がつかなくなる体験をするはずである。自分の心とはここまで混沌(カオス)としているのかという事実に驚かされる。無意識には意識と異なり秩序だっておらず、自分でもコントロール不可能な巨大なエネルギーでうごめいている。それが本来の私たちの心の動きなのである。しかし、その自分の心のうごめきを否定してはならないし、抑え込もうとする必要もない。その自分を拒否してはならない。むしろ逆に、自分という人間はこれ程多くの負の要素を抱えながら生き、自分では想像もつかないほど巨大なエネルギーが潜んでいるのだという事実を受け入れることが必要である。このような自分のこころのうごめきをありのままの受け入れることが、逆にストレスや不安や苦痛を自分自身から解放していくことになる。負の要素が心の中に溜まるのは、実は私たち自身が抑え込み、蓋をしているからである。蓋をしていれば負の要素は自分の中からは決して出ていかない。しかし、抑え込むことを止め、蓋を開け、負の要素を受け入れることで、それらは自ずと自分の外へと出ていく。瞑想とは無理やりにストレスを振り絞って追い出すことなのではない。心を解放することで、溜め込んでいるものを解き放ち、本来の自分を取り戻すことなのである。本来の自分の力を取り戻した時の爽快感は驚きのはずである。自分にはこれ程の力があったのかということを実感するだろう。
次回は瞑想の実践方法に入ります。