5.感情の渦、感情・エネルギーの解放

忘我状態を一定時間継続できるようになると、しだいに意識の深みに踏み込んでいく。ここから次のステップに入る。ここからが本格的な瞑想である。忘我状態は意識と無意識の狭間であるが、無意識の領域に入り込むと感情の渦の段階に移る。この領域に入ると、忘我状態の無心で落ち着いた状態から一変して、激しい感情の波に襲われる。自分の心に中に閉じ込めていたあらゆるストレス、不安、怒り、憎しみ、苦悩、苦痛、恐怖、辛い過去、それ以外にも様々な考えや感情などが無秩序且つ爆発的に次々に現れては消える。制御不能の感情の波が止めどなく襲ってくる。自分の心の中に秘められている混沌(カオス)に直面しているが故の状態である。自分の心のうごめきの生々しさに衝撃を受けるだろう。しかし同時に自分の中に本来ある凄まじいエネルギーがこれ程あるのかとも驚かされる。自分という存在を自分自身が制御できる意識からのみ見ただけでは知ることは出来ない、自分の中には制御不能な領域・混沌のエネルギーが渦巻いていることに気が付く。

感情の渦にいるときは、そこで襲ってくるあらゆる感情を否定したり、押し込めたりしてはいけない。降って湧いてくる様々な感情は全て自分自身のものである。それらの感情をありのまま受け止める必要がある。そのままだと感情の渦に飲み込まれてしまうと考え、恐れる人もいるかもしれない。しかし恐れる必要はない。むしろ、感情の渦に身を任せ、飲み込ませてしまって良い。抵抗してはならない。これらの感情の渦は自分の敵ではない。むしろ本来自分自身が感じるべきであった感情を自分が無意識へと抑圧し、追いやったものである。その感情が溢れて、暴れまわっているということは無意識の抑圧の封印が解かれ、解放されているということである。自分の中に抑え込まれていたエネルギーが解放されている状態が感情の渦の段階である。感情の渦に飲み込まれても安心してよいのは、それが永遠に続くわけではないからである。いくら凄まじいエネルギーの奔流だといえ、それは無限ではない。エネルギーを放出して、出し尽くしてしまえば後は心という名の大海原に凪が戻る。

感情の渦の荒れ具合はその日の体調であったり、溜め込んだストレスの量によって日々違う。大荒れの日もあれば、さほど荒れない日もある。

感情の渦の領域で大切なのは、無意識へと抑え込んでいる本来の自分を受け入れることである。

 

6.無我状態

感情の渦が収まり凪になったなら、次のステップに自然に入る。心の中にあったエネルギーを全て出し尽くしてしまった後は、心が空っぽの状態になる。忘我状態とは異なる心地よさと安心感、適度な疲労感、脱力感に満たされる。そこには溜め込んでいたものを全て放出して、重りから解放された身軽さがある。一切の雑念が取り払われ、心穏やかな状態になる。

しかし、無我状態はそう長く続かない。もう一段上の瞑想として、無我状態を維持しながら更に奥へと入り込める領域があるが、そこまで至るのには非常に困難であり、長い訓練が必要である。またその領域はストレス解消とは無関係であるのでここでは述べない。

 

7.瞑想からの帰還

無我状態に入ったならば、瞑想から帰還しなければならない。意識から無意識へと降りてくるのが瞑想であるならば、瞑想からの帰還は無意識から意識へと自分を戻していくことである。これは簡単であり、無意識的に続けていた正しい呼吸を再び意識的に行い始め、意識を集中させていたものに意識を戻すだけである。このとき呼吸は長めに息を吐くように。数呼吸続ければ、自意識へと帰還することができる。瞑想とは瞑想状態に入るだけでなく、意識へと戻ることまでが瞑想である。

 

8.瞑想の心得

以上が瞑想の全体像である。今回は自分が行っている瞑想を文字に起こして整理してみた。文字として読むのは簡単だし、内容を理解するのも簡単である。しかし、自分で実践してみようとすると大変難しいと感じるだろう。瞑想を習得するには長い時間をかけた訓練が必要である。できれば毎日の訓練が必要である。瞑想の訓練はスポーツの練習と同じであり、最初の内はボールが上手く蹴れず、バットにボールが当たらないように、瞑想へとなかなか入れないだろう。特にある段階から次の段階へ移ろうとするのは難しい。しかし、何事も訓練次第で上手くいくように、瞑想も継続して訓練し続ければ、ある日コツが分かる。コツさえ分かれば新しい段配に入ることができるし、苦労なく今までの段階に踏み込むことができるようになる。瞑想を実践できるかどうかは訓練を継続できるか否かにある。

そして、一度無我状態に到達できたならば、それは今までにないほど心が軽く、解放され、穏やかな心の状態を味わうだろう。それを味わったら、忘れることは出来ないだろう。

蛇足かもしれないが、一例として私の瞑想の実践を紹介したい。瞑想の説明だけではイメージがつかみにくいことも、少しは補足できれば幸いである。

 

風呂が多い。より視覚的にリラックスを求めるならば電気を消して、キャンドルの灯りだけにする。筋肉を弛緩させ、呼吸法を行いながら、キャンドルを灯しているのならば火に意識を集中させる。キャンドルを着けていないならば目をつぶり意識を一点に集中させる。数呼吸するうちに忘我状態に入る。ここに至るまで1~2分ぐらい。忘我状態に入ってしばらくすると自然に感情の渦に飲み込まれる。感情の波に揺られるに任せるままにする。感情の渦に自分をゆだねる。この感情の渦にいる時間が瞑想の中で最も長い。ある程度時間が経つと感情の渦が収まり、凪になる。無我状態になる。ここまでで8~9分ぐらい。そこから更に奥に進まない日は、無我状態を長く続かせる必要はないので、意識的に正しい呼吸をし、自意識へと戻っていく。数呼吸で意識が戻り、呼吸も整う。全体で10分程。

9.補足

瞑想を始めたばかりの人にとって気になることの一つは、瞑想する時の姿勢であろう。どのような姿勢で行えばよいのか悩むだろう。禅のような姿勢をイメージするかもしれない。しかし、実のところ瞑想するのに特定の姿勢を保たなければならないということはない。瞑想するにあたって特定の姿勢を保持する理由は「意識の集中」を行うのに便利だからである。瞑想に慣れるまではいくつかの壁があるが、最初にぶつかる壁が「意識の集中」である。この壁を超えるための道具として特定の姿勢を保持するということがある。それは特定の姿勢を保つことで自分の肉体や筋肉の動きに意識を集中させるという作用があるからである。大切なのは「意識の集中」であり、姿勢を取ること自体に意味があるのではない。言い換えれば、姿勢を取るということは意識の集中をするための道具ということになる。

瞑想するにあたって特定の姿勢に拘る必要はない。ベッドの上でゴロゴロ動きながら瞑想しても構わない。体を動かしながらでも瞑想は可能である。例えば散歩しながら瞑想することもできる。歩くことに意識を集中させれば自然と忘我状態に入る。散歩は瞑想に適している行動で、多くの数学者や哲学者は散歩を通してリフレッシュしながら新しい発見をしている。

また、瞑想に慣れる前は瞑想状態に入ることを助ける様々な小道具を用いることをお勧めする。古くから宗教は祈りや瞑想をする時に様々な道具を用いている。例えば香を焚くこと、一定のリズムの音楽や歌、頌栄・詠唱・念仏など言葉をそらんじること、火を見つめることなどが挙げられる。これらは全て心身をリラックスさせたり、意識を集中させたり、忘我状態に入りやすくさせる為の道具である。長い時間をかけて宗教は人間が瞑想状態に入りやすくさせる為の知恵を生み出してきた。そしてこれらは今の有効である。訓練を積めば小道具なしで瞑想状態に入ることができるが、それは万人にできることではない。そこで宗教は誰もが祈りや瞑想を行えるように色々な道具を考えてきたのである。これらの道具を用いない手はない。