私はキリスト教世界に生きていました。

以前の投稿をお読みになった方ならば、私がどの様な世界に生きており、また現在キリスト教に対してどの様な感情を抱いているのかお分かりだと思います。

キリスト教の世界では、神・主イエスへの服従が尊ばれ、その生き方に向かって歩むのがクリスチャンの人生の目的とされています。それ自体は素晴らしい生き方だと思います。しかし、日本のキリスト教の教育は歪んでいます。自己謙遜という名目で、実際上は自己卑下の生き方を徹底的に教え込まれます。自分を価値の全くない罪人として、尊厳を全て剥奪され、だから神の救いが必要なのだ、神の救いがなければ生きていけないのだと叩き込まれます。それは教会学校であったても、説教であっても、神学校であっても同じ教育です。

現在の日本のキリスト教は人間本来が持っている善性、尊厳、価値を根本的に否定します。教会にとって人間性の全否定こそが、神への服従の根拠となるのです。

これが文字だとどれほど恐ろしいことか十全には伝わらないと思います。人間性の全否定の烙印を押された信徒は、自分の価値・潜在能力を根こそぎ奪われた人生というものに喜びはありません。歪んだ偽りの喜びはあります。それは「こんなどうしようもない自分を生かしてくれたてありがとうございます」という自己卑下から生まれる感謝です。また、そんな自分を受け入れて繋げてくれる神と教会への感謝のしるしとして献金をしなければならないという強迫観念です。過去の自分を見ると、なんて愚かな考えに支配されていたのだろうと感じます。

今、私はキリスト教世界から解放された人生を歩んでいます。イエスの教えの素晴らしさは尊重しますが、いわゆる教会が教える事柄はもはや信奉していません。しかし、私が今の様に人間性を取り戻すには多くの時間がかかりました。

長年に渡って当たり前のように刷り込まれてきた価値観というものは簡単には消えません。それは心の中に染物の様に染み込んでいます。隅々に渡って漂白することは短時間ではできません。私は自分が今まで手を付けなかったような本を読むことを通して、色々な価値観を触れました。その様なリハビリ作業によって徐々に支配されていた価値観をいつしか俯瞰することができるようになりました。完全に支配されているときは、その価値観に疑問すら抱くことができないものです。その状態から脱却できたということは、自分が人間性を取り戻し、解放されたのだという証拠だと思います。

現在、この様な自分の復帰をかけるということが奇跡的なことだと思います。私は人一倍キリスト教世界で生きることにのめり込み、その世界が最も正しいものであると確信していました。それゆえ私はキリスト教が教えているように、自分という存在に全く価値を見出していませんでした。自分に価値を見出すということが罪だったからです。深淵に突き落とされた状態から、復帰できたことで、私は本当の意味での人間の価値、生きる価値、人間性、人間の尊厳というものを実感しています。多くの人はこれらを当たり前のように感じているかもしれませんが、私にとっては一つ一つが非常に貴重な宝のようなものです。

これからもブログを通して人間性について話していければいいなと思っています。