私たちの命には限りがあります。短命の人もいれば、長寿の人もいます。しかし、どんなに長生きしようとしても必ず終わりがあります。

それは誰もが知っていることです。

人生とは何かと問われたら、それは時間であると答えられます。温かみのない答えかもしれませんが、人生は時間です。

自分の与えられている時間をどう使うか。それは自分の人生をどう生きるかと同じことを意味しています。

そして残念ながら、時間というものは決して立ち止まってくれません。今この時も時間は過ぎ去っているのです。言い換えるならば、人生というのは刻一刻と終わりへと近づいています。

自分の時間をどう使うのか。時間を選択するということは生き方を選択するということと同義です。

限られた自分の時間を、自分の最も望み、最も満足する形で選択し、使うことができたならば、それは最高の人生でしょう。しかし、限られた自分の時間を、自分が全く望まず、不本意で、無意味と感じながら、それを選択せざるを得なかった人生は最悪だと言えるでしょう。

どちらも両極端で実際に起こりうることはありません。しかし、人生における時間の比率が、望むものと不本意なもの、意味あるものと無意味なもの、どちらの方がより多いかで自分の人生の価値を測ることができるでしょう。

あなたは大切な自分の人生を不本意で、無意味で、無価値な時間に支配されたいですか?

現代に生きる私たちの多くは、時間をどう生きるかということを蔑ろにしています。いえ、蔑ろにしているというよりも、時間=人生。時間=命という視点すら持てていません。

一日は24時間です。あなたはその24時間をどう使っているでしょうか。24時間の中で最も時間を割いている事柄は何でしょうか?睡眠でしょうか?それとも仕事?それが自分の貴重な命の一部を捧げる価値のある時間ならばとても素晴らしいことです。しかし、それが嫌々ながらしなければならないものであるならば、あなたは自分の命の一部である時間を無価値なもの(それは主観的な判断でよい)に捧げていることになるのです。なんという悲劇で、馬鹿馬鹿しいことだと思いませんか?

私たちの多くは時間という名の人生・命と対価に(=労働して)賃金を得ています。その労働があなたの人生という価値に見合うものであるならば、即ちやりがいや生きがいを感じるものであるならば問題ありません。そこから得られるものは単に賃金だけではなく、もっと多くのものを得ているはずです。しかし、自分の人生に見合わない労働であるならば、それは自分の時間という名の人生を浪費しているにすぎません。しかし、時間に支配され、時間を浪費している人に限ってそのことが見えていないのです。賃金の多さ・少なさが問題なのではないのです。どんなに多くの賃金を得ていたとしても、自分の時間=人生・命を自分にとって無価値なものに捧げるということが問題なのです。それこそが人生最大の悲劇です。

その一方で、完全に労働から解放されている人々もいます。彼らは自由人です。それは労働から自由であるという意味ではありません。彼らは時間に対して解放されているのであり、自由なのです。それは自分の人生を自由に生きているということです。彼らは自分の時間を、自分自身で選択し、決定しているのです。時間に支配されるのではなく、時間から解放されているのです。その時間=人生を自分にとってより価値のある事柄へ捧げられるということは、人生の最高の喜びです。

今一度、自分にとっての時間というものを考えてみて下さい。